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瑠王

男は94ページを読み終えると、時計を目にした。

7時23分。

昨晩から雨が続いている。
グリーンの縁の窓から臨む景色は、霧がかっている。
溜め息をついてはみたものの、こんな休暇も悪くはないかもしれないと思い直した。
これもシナリオのうちだ。
嘆いていては何をも楽しむことなどできない。
そんな風に物事を捉えるようになったのは父の影響だった。

「全ては書かれている」


決して裕福とは言えない環境で育った父の口癖だった。

成るべくして成ってしまった状況にもし打つ手がないのならば、シナリオ通りの反応をしてしまったら損ではないか。
何も役者になりきることはない。
どんな舞台にも大根役者は付き物だ。
そう言って父はよく笑った。

そんな父も心臓を患い1年に及ぶ闘病の末、そのシナリオを終えた。
安らかな死に顔は、彼が最期まで大根役者を演じきった証拠だった。

この本は父が愛読していた詩集だ。
父の遺品の中から見つけ、黙って私が持ってきてしまった。
尤も、5人もいる兄弟の中で本を読むのは自分くらいのものだ。
誰も文句は言うまい。
この本が父から私へ受け継がれたのも、そういうシナリオなのだろう。
いづれは私の子へと受け継がれてゆくのかもしれない。

父の言う"シナリオ"とは不思議なものだ。
実は自分も本を読むとは言っても小説や専門書ばかりで、詩集などには手を出したことはなかった。
しかし父がどんな本を愛していたのか、気になったのだ。
そして私もまたこの詩集を愛するようになった。
父はこのシナリオを知っていたのだろうか。
表紙の裏側にはこう書かれていた。

「愛すべき息子へ」




彼は少し身体を伸ばし、今度はテーブルに目をやる。
一枚の紙切れ、こう書かれている。

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朝食をとられるお客様は8時までに食堂にお集まりください。パンではなく、ライスをご希望の方はお気軽にお申し付けくださいませ。


彼はベッドから出ると、その紙切れを栞代わりに本にはさみテーブルの上に置いた。

さて、今日はどんなシナリオが待っているのか。
彼は子急ぎで着替えると食堂へ向かうべく、その部屋を後にした。


しかしながら、彼がその部屋に戻ることはなかった。
そして二度と、その本を開くことも。





散文(批評随筆小説等) healcaのお客様へ Copyright 瑠王 2010-07-30 00:31:07
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