Let the people play——The Game. 銀上かもめ /「街」
葉月二兎

紙面に筆を入れることで、そこは詩の場所になる。
その場所から立ち現れる言葉を、詩人は「詩」として掴もうとする。

書かれた言葉から「街」という「詩」の、(こういって良ければ)「意味」までに登らなければならない階段を消すようにして言葉を書いている。銀上かもめの「街」という作品。

  銀上かもめ /「街」
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意味を与えようとする言葉を消去するようにして、この詩は書かれている。
言葉に意味を与えようとするが、言葉自体が意味を消そうとして、詩を書きだす筆は街を歩く遊歩者としての性格を表す。
あたかもロメールの「獅子座」における任意の人“ピエール”がパリの街を“意味=方向(Sens)”なく彷徨することによって、フィルムの回転数を定義しているのと同じく、この作品の言葉もまた両義性に満ちている。


そっとどこかで街が消えるように
どこかに街がある


それはまた、作品の読み手に向けられた「どこでもない場所」のことでもある。
すなわち、「街が消えるように/どこかに街がある」という一つ目の両義性。
例えば詩の場所における定義の問題―――「ぼくの街がある」。

作品を両義性に対し、書き手と読み手のゲーム間に賭けられているものは、その意味ではなく、不確実性そのものである。書き手と読み手の間に共有される「どこでも無い場所」という両義性のテーブルの上で、まずは書き手が駒を進める。視点を空に引き上げ(Up in the Air)*1、彼の持ち駒はこうだ、


図書館
映画館
寝室
空港


「それだけのような気がする」というものの、それらの動きはチェスのような平面上の「縦横斜め」ではなく、「ふくよかになったり/やせたりする」という、三次元の動的なイメージとして、読み手に示される。

(さあ、テーブルが動き出した)


( この前 地図の上からアメリカがなくなって
  昨日は<ぼくの街>以外すべてアメリカになった )


そしてつぶやかれるような()の中、テーブルの空間、我々のゲームの場は、「この前 地図の上からアメリカがなくなって/昨日は<ぼくの街>以外すべてアメリカになった」といった、「アメリカ」という特異点を持ったトポロジカルな空間(「この前」という語は時間性を伴うものだ)へと再定義される。

「<ぼくの街>以外すべてアメリカ」という書き手の一手、「この前」という契機に伴い、書き手はこの作品の位相を、より物理的なPhase space(位相空間)として書き変えていく。

続いてのターン、まずは軽いヒネリ。メビウスの輪のような「大人」と「子供」の関係性。


大人はいない
大人は子供にポリポリ食べられて


そしてまた表れる両極点


その分何かを失っているけれど
頭が悪いからどんどん失いたいね


「だからこの街で一番賢い詩人は なにも書かない」のである。

ここでゲームの行く末を見つめる観覧者の為にも、書き手の手筋を掻い摘んで解説しよう。この作品ではまず書き手がテーブルを用意し、我々をゲームへと誘いだす。そのあと存分にそのような場所を変化させて、読み手に示してくる。これが書き手の手筋である。

言葉から言葉、連から連への関係性を空間として、マトリューシカのように空間や空間を重ねあわせて、 その「隙間」を読み手に歩かせる……迷路のような「街」にして。

ポイントは、「初めと終わり(両極)」とがある単語、例えば「アメリカ」のような点に対応して、「初めと終わり」とが“重なりあう(すなわち両義性)”ような関係として書き出している、ということだ。

読み手はいちいちそんな駒の動きを見極めて、どう歩けばいいか、こういった方がいいか、などとさ迷いながらこの「街」を歩いていくのだ。だが、案ずることはない。この「街」を散策するための「標識(Sign、Signe)」を我々は知っている。思い出そう、それは次の連、冒頭ですぐに見つけられる、

大人の体になった子供たち


という「両義性」なのだから。

そうして読み手は「森へ行き」、森へと我々を連れだして、


( いつもここへ来ると決まって
  こんなところあったっけ? と言う )


―――まるでふざけた少年探偵のように、私の「読み」を掻い潜り、


年輪にスプレーをかける
ときどき一番賢い詩人の頭にも


書き手のゲームに付き合う読み手に刻まれた顔のシワ、あるいは思惟を巡らせる脳溝を冷やかすように、スプレーがかけられる。この不意打ちに私ならば「バーロー」とでも返すだろうか。いや、「そんなことだから戦争もよく始まって」しまうのだ。


そんなことだから戦争もよく始まって
だけど死ぬ奴はいない
誰も出兵なんてしないから


「始まって/だから〜ない/〜から」という書き手の手筋、「いない/しない」という韻を伴った滑らかで急性な言葉の流れが、読み手の口から出かかった言葉を留める。「出兵」とは、書き手の言葉の放出であるが、同時に「出兵なんてしない」という“意味=方向(Sens)”を剥奪して「街」を書き出している、という作品の「標識」そのものでもあるのだ。文字通り“戦争をする「意味」がない”。「出兵」しようにも、兵を出すべき「方向」は、本来「意味」そのものを生み出す「言葉」によって失われている。「街が消えるように/どこかに街がある」という「どこでもない場所」、その「両義性」として。

さて、書き手のゲームに付き合って、読者もそろそろ疲れているころだろう。書き手はこうした心情までも図ってくれているのか、私の言葉をこれ以上ないほどに先読みし、私が書くはずだった試みを頓挫(Checkmate)させる。


口を揃えて僕らが言うことには
 こんなになってしまうのも
 かんたんなことじゃなかったんだよ


そして「読み手」と「書き手」という両極は、言葉を重ねあわせる。


そして腫れぼったい目をこすり
誰かを待つために歩いていく


最終連で「読み手」と「書き手」が重なりあう。それは「言葉」という「両義性」であるが、それを媒介するのは「誰か」という「他者」である。「言葉」は意味=方向をなさないが、「他者」と結びつくことによって、それは「両義性」を得て、このゲームは終盤をむかえる。こうして「読み手=書き手」となった「言葉」は、「誰か」の元へ歩みをすすめるのである。

さて、いささか長くなってしまったこのゲームだが、読者としてはその勝敗が気になるところではあるだろう。この作品を作り出し、“読む”ことによって読み手を「ぼくの街」へと、ゲームへと誘い出し、“読み”を留まらせ、時には不意打ちにしてチェックメイトにまでもっていった「書き手」であろうか。

―――ここで「読み手」たる私は最後の手を打とう。私はこの「街」に向かい、その言葉に翻弄されつつ、標識とともにこの街路をさ迷いつつも、一つの線を引き、この「街」の地図を創りだしたつもりである。

その地図とは名前とは何か?“批評”である。


ようやくゲームは終わった。
私はその勝敗を読者に委ねることとしよう。



*1 "Up in the Air" 「空に浮いている」または「宙吊りにする、まだ未解決、定まらない」
なお本文中敬称略。


散文(批評随筆小説等) Let the people play——The Game. 銀上かもめ /「街」 Copyright 葉月二兎 2010-06-24 19:16:10
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