餃子男
salco

バイオエタノール転用と投機の影響で穀物価格が急騰した2007年以来
、小麦の上げ幅は天井を知らず、地球温暖化もいよいよ加速して温帯地域
が減少すると共に、北米の穀倉ベルトが2年連続の干ばつとハリケーン、
その名もキャリーとチャッキーに立て続けに見舞われ、投機すべき作物す
らない今年である。
子宮寒冷化の省エネモードで乗り切ろうという先進各国とは異なり、超絶
インフレの発展途上国では多くの乳幼児が餓死して行く。
5年前のアッソ政権の次に、ハトヤバ、クダ内閣が挑むも官僚不動如山に
財政再建は失笑譚に終わり、長引く円高不況で国家経済も破綻した日本は
IMFから借金を重ね、7%の消費税も国際援助とペルシャ湾沖での「ま
だまだ対テロ活動中」米軍艦船への燃料補給活動に充てたので、飼料高騰
による酪農製品・鶏卵に続き、ついにスーパーの陳列棚から小麦粉の消え
る日を迎えることとなった。

製粉・製パン・製麺・製菓など各業界の原材料分は、ロシアを始めとする
主要生産国からの緊急輸入で備蓄分を確保したので、当面は問題なしとの
政府発表である。しかし個人経営の店舗は天ぷら屋を皮切りに、イタリア
ン、洋菓子、お好み焼き、ラーメン、クレープ、たこ焼き、たい焼きと客
単価の高い順から潰れ出し、間もなく家庭用小麦粉までもが十全な値上げ
を重ねる前に、早々と店頭から一掃された。
さすがのマクデブルグもモソに追随し、ライスバーガーとおにぎりを主力
に閑古鳥を払拭しようとしているが、
「まじー? ウチでもガッコーでもコメばっか食わされてるんでー、マッ
クでもコメまじへこむー。いーかげんパン食いたいんだけどー、てか、グ
ラコロ950円ありえねーすぃー」
と贅沢好きな女子高校生にも拒否られ、店舗削減も時間の問題である。
かくして金曜日の餃子値下げを廃止した餃子の闘将も顧客層の変化で、社
長は否定するが、ちょっとした中華ダイニングの趣がある。

パンが食べたければ1斤500円前後の食パンを買うか、麺類にしたけれ
ば500g678円のパスタ、300g497円の乾緬、1袋3玉入り4
98円の生麺と選択肢は多い。又そんな蕩尽の選択肢がないのなら、価格
変動のない米で作った加工品を代用すればよい。
とは言え、小麦粉がコメギ粉という名でない既成事実にこそ看過を許さぬ
意味合いがある。何しろ米デンプンの特徴であるモチモチ・ズッシリな凝
集感は、ロココやチュチュにそぐわぬ母の面影にも似て、想うだに食傷で
食道を塞ぎ噴門部をひしぐのである。
しかし東日本とは消費量が桁違いの粉食大国・大阪を始めとする西日本で
は、事態はより深刻であった。

「たこ焼・お好み・素うどん食わせ。浪速の食文化を守れ」=通称タコス
運動 が興り、神奈川県川崎市麻生区在住の買いだめ上手な奥さんが最後
の1袋を見つめ悛巡と惜別を2往復する間に、市民団体のシュプレヒコー
ルは国会議事堂と大阪府庁舎の周回軌道を既に7巡目へ突入の刹那であっ
た。
すると、お好み焼きは当方が本場だと広島県民がまず不快感を表明し、讃
岐こそはうどん文化のメッカだと香川県民が雷同して、常日頃から鼻につ
いていた大阪人の自己顕示型中華思想に、この時とばかり噛みついたのだ

「なんや自分ら。主張すべきことは先に主張せんと、いっつも後からゴチ
ャゴチャ本末転倒のイチャモンぬかしよってからに。こっちは財政再建に
背水の陣や、田舎もんのヒガミに付き合うとるヒマないで」
このように精神年齢と情緒が不安定な府知事がまたもや独善的放言に及ん
だものだから、先週末の国会議事堂前では3県民の小競り合いから大乱闘
へ発展した。幸い軽傷者だけで済んだものの、約40年ぶりのデモ隊鎮圧
に出動した警察機動隊の催涙弾誤射で、数名の国会議員がドライアイ完治
に至った。


ちょうどこの頃、中西健太は春の大学対抗戦に向けて追い込みに入ってい
た。去年は団体戦3位と振るわなかったので、監督以下、部員一丸の気合
は尋常でない。自分も出場候補として学内ジムでの機械筋トレが強化され
たので、肉体的にも精神的にも脱力の寸暇がなくなった。故障を防ぐので
精一杯だ。
そんなわけで帰宅の電車では、腕を組んでのうたた寝どころかコサックの
死体さながらの爆睡となる。終日を寮の古畳に寝転がって過ごす日曜だけ
は天国で、しかし今日はまだ水曜だ。

まぶしい沖縄の砂浜に座っていた。オレンジ色のビキニ姿の香織は、少し
灼けた顔を遠浅の海へ向け、体育座りでケラケラ笑っている。こちらを振
り向く度に、綺麗な歯並びが白熱の日射と砂にハレーションを起こす。
合コンで知り合った1歳下、自分好みの小柄で童顔、都内近郊にある女子
大の国文科に学んでいる。清純な顔に反比例のナイスバディに思わず目を
瞠った。
水着だとグラドルみたいじゃん。
何故ならそこまで行かずに別れたからで、シーツの海原はおろか、プール
サイドにすら至らず潰えたのだ。

「ね。キスして?」    
3度目のデートの別れ際、深夜の児童公園で顔を仰向けて来た。そこまで
は行ったのだ。柔らかな唇は夢心地のしとね、甘やかな舌は天国への導き
だった。
「ね? キスして」
胸に深い谷間を見せて顔を寄せて来た。健太の唇は再び優しい唇を捉え、
舌は懐かしい舌と抱き合う。『涙が出そうだ』健太は思った。
去年の7月。秋の大会へ向けた強化練習で忙しくなり、じれた香織は可愛
らしく若く、自分を待ってはくれなかった。付き合って2か月目に入った
ところだった。
だから夢とは知りつつ、1秒でも長く一緒にいたい。卒業までは女どころ
の生活ではない。次第によっては、社会人になってもそうかも知れない。

夢の香織は舌の交わりを続ける。既に健太は痛いほどだ。つと香織の唇は
吸引を離れ、前歯も動員しながら首筋へと下り始めた。 
いいの? 
健太が心で問いかける。
「いいよ」
同じように香織が答える。
健太が右手で巨大なオレンジを掴むと果肉が溢れ、熱風が耳を覆った。
「ね。して?」      
耳たぶを舐めて香織が切なく呻いた。欲しい。
張ったトランクスの頂きを強く撫で擦る。コレがいいの、コレ欲しい。
欲情に包まれた左耳に衝撃が走った。

「どうもすみません!
何するのあんたはもう。お兄さんに謝りなさい!」   
隣には3歳ほどの男の子を膝に乗せた、茶色いコートの女性が座ってい
る。見回せば、車内はずいぶん混んでいた。
「いやあ! ギョウジャ。ギョウジャ食べるのおぉ!」 
抱きかかえられた子は反り返って泣き出した。盛んに詫びる母親に、健
太は居心地悪そうな身じろぎをして言った。
いや、いいっすよ。     
今週、物欲しげな子供に耳を餃子呼ばわりされたのは、これで4度目で
あった。


散文(批評随筆小説等) 餃子男 Copyright salco 2010-06-20 08:04:22
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