無知のカバンに雨は降る。
ブライアン

 世界滅亡のカウントダウンに震える最中、地区に一つだけの信号機を無視して、交差点を自転車で横切っていった。空には飛行機もヘリコプターもミサイルも飛んでいなかった。湿度の高い空は、青空の下に、薄い水蒸気の幕を張っていた。盆地にありがちなじめっとする暑い夏だった。道路脇の用水路。緑に茂った草。揺れる歩道橋。国道113号線を横切ると、それらのものが既に過去のものとなり、既に経験した風景として通り過ぎていく。その時は何も感じることは出来なかったが、それらの、茂った草や用水路の水、寂れた歩道橋が、その土地を表すに不可欠な要素だった。

 南に広がる平野は田で埋め尽くされている。道沿いに集落が固まってあり、色とりどりのトタン屋根が緑の田の中に浮き上がっていた。自転車を走らせる。風が体に当たる。友人の家へ向かっていたのだろうか。高校へ行こうと思っていたのだろうか。その日のことなどは、もうほとんど覚えていない。景色だけが脳裏に残っており、知らなかった悲劇の中、自転車を走らせていたのだった。
 
 南へ。その方角だけは確かだ。太陽の光が目の前にあり、遮断するものは何もなかった。影がなかった。日光を直接体に受け、熱を吸い込むようにして、自転車を走らせていた。自転車の中のカバン。いつもならジャージが入っているはずのカバン。その日はジャージなど入っていなかった。誰にも知られてはいけないこと。そして、誰も知りはしないこと。カバンの中身を知るものはいなかった。そういう時が、人生には必ずあるものだ。ただ、世界が滅亡に向かっているその時に、起きてしまったということだけ。ただ必死に自転車を走らせ、南へ向かった。可能な限り南へ。

 ポケットの中にはポータブルのラジオが入っていて、雑音を交えながら音楽が流れていた。当時流行っていた音楽ではなかった。どこかの国の音楽だった。異国のその音楽は、世界を滅亡へ導こうとする国の音楽だった。ロックンロール、フォーク。歌で世界を救おう、と言っているのだろうか。
 小学校の頃、戦争の歴史を習った。生徒の誰もが思う。誰も望まないのになぜ戦争は起きるのだろう、と。きっと、戦争など起きないに決まっている、と。けれど、その間中、戦争は起きていた。起きている事実を真摯に受け止めたのは、実際にそう伝えた先生だけだった。先生は無知ではなかったから。
 遠い国の物語。ミサイルや爆弾が飛び交う景色などこの世にありはしない、とそう思っていた。先生に反して子供は無知だ。この世にありもしないとおもう景色の只中に置かれたとしたら、躊躇いなく人を殺すだろう。思い描いていたものは、想像通り儚いものなのだ。幻影は現実に入り込み、侵食していく。

 自転車のかごに乗せられたカバンを手で押さえ、さらに南へ走る。どこからだろう、積乱雲の気配が漂い始める。一瞬であたりは暗くなる。雷が南で落とされる。激しい音と共に光が破裂する。雷が止むことはなかった。うっすらと煙が空へ上がっていた。雷が落ちたのだろう。そう思っていた。それでも、その積乱雲の中へ身を投じなければ南へはいけない。さらに力強く自転車を走らせた。

 目をつむってはならない。たとえ遠くの国のことだとしても。人は爆弾によって殺されるし、ミサイルによって殺されるのだ。そもそも、そんなものは必要ない。雷によってさえ人は殺される。煙が上がる場所を見つめていた。大粒の雨が手の平に落ち始める。光が光る。遅れて音が鳴った。恐怖が押しかけてくる。周囲には高いものはなかった。雷が落ちる場所はどこか。その答えを答えたなら、命はない。道端の草よりも体を低くして自転車を走らせるほかない。とはいえ、それが不可能であることは分かっていた。死ぬかもしれない。そう思った。

 国道113号線を越えて南へ走った。その場所は韓国ではなかったけれど、北緯では十分韓国の領土を駆けていた。北朝鮮の緯度から、韓国の緯度へ。その日運んでいたカバンの中身が爆弾だったら、何人かの人は死んでいるはずだった。世界は滅亡しようと心がけているのかもしれない。誰もが戦争をしようと思っているのかもしれない。ベルリンの壁が崩壊しようが、ソ連が崩壊しようが、変わらない世界もあるのだ。
 
 核兵器が大量の雨を降らせた時、世界は、にやりとほくそえむ。ワレワレハタダシイ、と世界が語りかける。そして、無知のカバンにこめられた爆弾は南の街へと辿りつき、多くの人間の命を奪う。ワレワレハタダシイ。
 そしてまた、ワレワレハタダシイ、ので仕返しに核兵器のボタンを押すしかない。巨大な熱が地上の水分を奪い、急速に積乱雲を生む。雨が降る。その土地に。茂った緑、用水路の水の音、寂れた歩道橋の地区に、雨が降る。


散文(批評随筆小説等) 無知のカバンに雨は降る。 Copyright ブライアン 2010-06-20 00:47:02
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