借りた詩集 西條 八十全集
ふるる

西條 八十全集1、2、3(抒情詩)、4(時局詩・少年詩)と13(詩論・詩話)巻
?国書刊行会発行 
を、借りました。何も考えずに予約して、来たら一冊が辞書ほどの分厚さでびっくり。
西條八十と言えば北原白秋と並ぶ明治〜昭和を代表する童謡作詞家、歌謡曲作詞歌、詩人です。西條八十作詞の『青い山脈』や『王将』は今でもたまに耳にします。童謡で有名なのは『かなりや』ですね。これは、「詩心を忘れた詩人=自分」のことを言ってる歌なのだそうです。詩を書けなくなった詩人は、山に捨てたり、生き埋めにしたり、鞭で打ったりしたい(ほど情けない?価値がない?)けれども「象牙の船に銀の櫂、月夜の海に浮かべれば、忘れた歌をおもひだす。」という、なんとも切ない歌です。他に、全部を音読すると死んでしまうといわれる詩「トミノの地獄」の都市伝説もありますね。

ひとつの詩から抜粋いたします。

「年」

(略)

恋人よ、馬を下れ、
そこにわが壮麗な氷河がある、
そは夜に輝く水銀のランプ、書の無言の火打石である、
いざ、われらが秘めた匂いたかき花束を投げよう。
薔薇、百合、花薄荷、罌粟、金鳳花、
素馨、にほいあらせいとう・・・・・

私たちが涙しつつ投げる花束は
星のやう、火のやう、かぎりなく舞ひ、
夕日のなかに粉雪はちりみだれる。

(略)

(西條八十全集 第一巻 美しき喪失より ※一部、パソコンで出せない漢字を常用漢字にしてあります)

これは、自分たちの重ねてきた年月を花束になぞらえ、それを大きな氷河に託したいという願いを歌ったものです。
非常に乙女な感じです。そしてこんな風に、星や花を散りばめた詩が数多くあるのですが、こういう表現や詩って今はほとんどないなあと。(あったらすいません)
多分ですが、西條八十は戦時下の愛国詩、軍歌も沢山書いていて、それにもこういった美辞麗句的な表現が沢山使われていて、結果、悲惨なことになってしまった。だから、そういうもので現実を美化するのを封印しようという動きがあったのではないかと思うんです。(西條八十は戦後もそういう方向で書いてるけど、詩の流れとして)
ところで、西條八十の戦時下の時局詩がものすごく多いのでびっくりしたし、綺麗な表現が多いので、二度びっくりでした。

例えばこちら。

「敵鷲来る日ー妹におくるー」(西條八十全集 第四巻「銃後」1943年刊行より ちなみに敗戦2年前)

(略)

幼き日より住み馴れし
都は紅に燃ゆるとも
小鳥の歌も花の香も
荒野の煙と消ゆるとも。

嵐ののちの青き空
夕映えののちの澄める星、
皇国の勝利を信じつつ
いと朗らかに戦はん。

(略)

最後の折も、黒髪に
みだれは見せじ、乙女子は
桜に沈む夕月の
美しく艶に死にてこそ。


これおくられても、妹としては「勝手に殺すなー!」と今は思いますし、戦争の最後の方は飼い犬を集めて食用缶詰にしてたくらいだから全然朗らかには戦えません。
色々読んでいるうちに、言葉ってほんとに怖いなと思いました。
国のために死ぬことを、こんなに美化してあったら「そうするのが本望」と情報の少ない状況では思い込んでしまうに違いない。とか、戦局が厳しければ厳しいほど、戦死が悲しければ悲しいほど、「それには意味があったんだ」と思いたくて、そう思わせてくれるものにすがってしまう。
ところで・・・西條八十は新聞社や陸軍に言われて3度も戦地に赴いて現場を見てるわけだから、勝てるか負けるか分かってたんじゃないか。100%勝つと信じて詩を作ってたとは思いがたい。負けそうなの知ってて、逃げろだとか怒れだとかは言わずに、死にゆく人々を美化し、称え、残った人々を慰め、鼓舞したんじゃないだろうか。と思いました。自分にできるのは、嘘でもいいからその死を「意味のある死」にすることだって思ったんじゃないか。実際、戦争を経験した当時の方が、それを読んでムカついただけか少しは慰められたのかは、分かりませんが。(敗戦後はもちろん、憎々しいものに思えただろうけど)
結果的には迷惑な話で、あの時代に詩人が全員「死ぬのかっこ悪いじゃん」「殺したり殺されたりなんて意味ないじゃん」と言ってたら、少しは違う結果になっていたのかもしれないけど、あとからだったら何とでも言える。ちなみに、その頃の詩人で金子光晴だけが愛国詩を書いてないと言われているそうですが、書いているそうです。書いてんのに書いてないっていう方がよっぽどかっこ悪いわ。それとか、萩原朔太郎が手紙の中で「とにかくこんな無良心の仕事をしたのは、僕としては始めての事。西條八十の仲間になったやうで慚愧の至りに耐えない。」と書いているそうだけど、なんか酷い書かれようです。
あと、「〜のために死ぬ」や「命をかける」という言葉も改めて怖いなあと。わが身を犠牲に・・・て美談に聞こえるけど、そう言ってる人の周りの人がすごい迷惑をこうむるんじゃないかと。命をかけちゃったら、もうストッパー無しの暴走特急ですよ。だめだめ、自分を大事にできない奴が他人を大事にできるか!!ですよ。

などと思いました。

あとあと、三巻の抒情詩に収められている詩は、西條八十が夫人雑誌や少女雑誌などに掲載したものや、若い人や少女のために書かれた詩集などからの詩なのですが、読んでいて、「どっかで読んだなあ?」とおもうことしばしば。どっかとは、小さい頃、自分の家でです。それでつらつら思うに、祖母が時々言っていた言葉のはしばしや、言い方なんかにそれがあったんじゃないかと。
例えば

(略)

夜ふけの屋根のお月さま、
人の知らない真夜中に、
音なくのぼり、また沈む
月の心を誰か知る

夜ふけの屋根のお月さま、
夜ふけの窓にしみじみと 
ひとり眺めて涙する 
乙女ごころを誰か知る

(略)

(西條八十全集第三巻 「秋の夜」より)

というのがあるんですが、
祖母が「夜ふけの屋根のお月さま、乙女ごころを誰か知る」とか言ってたのを思い出しました。この詩は昭和7年のもので、祖母は大正16年生まれですから、その頃5歳か。読む機会、あったかしら。今度聞いてみよう。それとか、昔の女学生の言葉遣い、「およしなさいよ」「ハンケチ」「シュミーズ」「シャンデリヤ」(昔の人はカタカナの最後の「ア」を「ヤ」と言いますね)など、久々に眼にしましたよ。そしてとても懐かしいような、タイムトラベルしてるような、不思議な感じが始終しました。
いいね!西條八十。乙女ごころですよ。そんなあってないようなものを、終始守り、育てようとするこのパワー。愛か。仕事、か・・・。

あとあとあと、第十三巻には詩話や詩論があるのですが、その中の「私の詩手帖から」に金子 みすゞのことが書いてありました。

「作者の『金子みすゞ』といふ女の詩人、みなさんは誰も御存じないでせう。おなじやうに、世間たいていの人は知らないのです。」

とあって、今では詩人と言えば谷川俊太郎か金子 みすゞかが一般的なのに、この時代誰も御存じないとは、なんとも言えない気分です。
西條八十は「童謡」という子供雑誌に投稿された金子 みすゞの作品を(選者に西條八十を指定している)採用しまくり、その数二十三編、彼女の才能をかなり買っていました。二人は一度、たった5分ほど会ったことがあって、そのことも書かれています。そして沢山の詩を紹介した最後に、みすゞの、お墓に入ったいい子は翅が生えて天使になって飛べるのよ。という詩を引いて、「生きては貧しく、不幸だつた『金子みすゞ』は、ほんたうに心の気高く清い、いい子でしたから、今ごろは美しい翅の生えた天使になって、どこからか、この原稿を書いている私を見て、にこにこ笑っていることだろうと思ひます。」と結んでいます。もう、悲しすぎる・・・。全集の中の栞には、西條八十が金子みすゞから手書きの童謡集を三冊送られて、それを出版したいと思いつつもしなかったことが書かれていますが、つらすぎたのかも・・・と思います。出版して、もしも認められなかったら、嫌だし、「西條先生と弟の正祐さんにだけわかってもらえればいいの」と言っていたらしいから、あんまり世間に出したくない、その気持ちを大事にしたのかなって。
つい長々と語ってしまった・・・・。



最後に、お気に入りのを載せます。

「顔」

けども、行けども
てしない荒野あれの
青白い花ばつかりが咲いている、
こんなさびしい旅を
わたしはいままでにしたことが無い。

ふと、ふりかへると
私は恋人の顔の上を
あてどなく彷徨さまよつていた。

(西條 八十全集第一巻 詩集詩集 「砂金」より ※「恋」が昔の漢字だったんですが、出ませんでした)





「蝶」

やがて地獄へくだるとき、
そこに待つ父母ちちはは
友人に私は何を持って行かう。

たぶん私はふところから
蒼白あをざめ、破れた
蝶の死骸を取り出すだらう。
さうして渡しながら言ふだらう。

一生を
子供のやうに、さみしく
これを追っていました、と。

(西條 八十全集第一巻 詩集 「美しき喪失」より)



わぁ〜どっちもめちゃさびしい。つうか、「さびしい」と「青白い」が両方使ってあるわ。だけどどっちもすごい完成度。完璧ですね。私も、もっと短い詩で勝負したらいいと思うよ。すごい好きな人の顔、表面を見ているのに、なんもわからなくてさびしい、何千と詩を書いておきながら、懐から出すのは蝶の死骸。人を分かろうとすること、美しいものを追いかけること、の空しさってものが胸にきます。でも、彷徨わずにはいられないし、追わずにはいられないんだな。詩人の業ってやつでしょうか。仕事、か・・・。




散文(批評随筆小説等) 借りた詩集 西條 八十全集 Copyright ふるる 2010-06-09 11:05:02
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