カバとキリカ
松本 涼
その日ジリはキリカの部屋の近所の居酒屋で、キリカと一緒に夕食がてらビールを飲んでいた。
近くに住む常連客が集まる、気取りの無い賑やかな店だ。
「なあ、キリカ一緒に住まないか?」
アルコールの勢いもあって、ジリは唐突にキリカに切り出した。
「なんで?」
そんなジリの質問にもキリカはチューハイを傾けながら、表情も変えずに問い返した。
「あたしカバより大きなイビキをかくのよ。」
「・・カバってイビキかくのか?」
「そりゃあ、あんなに大きいんだもの。イビキだってかくでしょ。」
ジリはそういう問題じゃないと思ったが、キリカはお構い無しに続けた。
「それにね、あたし夜中に原稿用紙二枚分くらいの寝言を言うの。ジリはそれに耐えられるの?」
「ホントに・・?」
するとキリカは笑いながら「あはは。まっさか。原稿用紙二枚分寝言を言ってることに気づいてたら、それってもう寝言じゃないでしょ。」と悪びれもせずに言った。
つまりはジリは遠まわしに断れたわけだ。
しかしキリカはその後も話し続けた。
「でもね、あたしこの間『カバの肉って食べられるの!?』って言う自分の寝言で起きたの。」
「・・・へえ。きっと変な夢を見てたんだね。」
「ううん。違うわ。」
妙に確信に満ちた表情でキリカは話し始めた。
「それはね、あたしの前世の記憶なの。」
「何?・・前世・・?」
「あたしの前世の前世の前世の前世のあたしがね、石器時代にいるわけよ。」
「・・・・・。」
ジリはいつものように、また話がおかしな方向へ行ってるなと思いながら、取り合えず黙って聞く事にした。
「それでね、あたしが温泉に入ってると・・」
「ちょ、ちょっと待って。石器時代に温泉があるわけ?」
「もちろん。マンモスの骨を埋めようとして、地面を掘ってたら温泉が出たの。」
「・・・あ、そう。」
「それでね、あたしが気持ち良く温泉に浸かってると、どこからともなくドスドスという音が聞こえてくるわけ。」
「・・・・・・。」
「ふと顔を上げると、遠くから一直線に大きなカバが走ってくるのよ。」
「・・カバが?どうして?」
「きっとカバは温泉が大好きで、その匂いを遠くから感じたのね。」
「・・ふーん。」
「それでね、あたしはびっくりしちゃって、ただ近づいてくるカバのことを見ているしかなかったの。でも近くにいたお父さんがね・・」
「お父さん?」
「そう、石器時代のあたしのお父さんがね、『あぶない!』ってそばにあった大きな石を持ち上げて、あたしに近づいて来てるカバに向かって投げたの。」
「・・それで?」
「見事その石はカバに命中して、カバはドスンて音を立てて倒れたのね。それで何だかあたしはカバの事が急にかわいそうになっちゃって、お父さんに『ねえ、このカバどうするの?』って聞いたの。そしたらお父さんが『今日の晩ご飯に今から腹を裂いて焼くんだよ。』って言ったの!そこであたしはお父さんに『カバの肉って食べられるの!?』って聞くわけよ!」
満足げなキリカの顔を見ながらジリは何とか「・・・よくそんな妄想が思いつくね・・。」と言った。
「妄想?違うわよ。これは本当にあったことなの。前世の前世の前世の前世のあたしがね、夢の力を借りて現代のあたしに太古の記憶を思い出させたんだと、あたしは思うわ。」
ジリは一体何の話をしていたんだっけと思いながら、ビールのお代わりを頼んだ。
キリカはしばらく一人何か納得した様子でいたが、突然
「ねえ、あたし砂肝もう一本頼んでもいい?ジリはいる?」と聞いてきたので、ジリはいらないと答えた。
「それじゃあ、お兄さん!砂肝三本下さい!」
「え?一本って言わなかった?」
「うん。言葉のあやよ。」
アヤ?
ジリは、絶対言葉の使い方間違ってるよなあと思いながら、冷たいビールを流し込んだ。
それから一時間ほどして、ほどよく酔った二人は居酒屋を出て、キリカのアパートへと向かっていた。
気がつくと何やら小さな声で、キリカが歌を口ずさんでいたのでジリは「何の歌?」と聞いてみた。
キリカは何で分からないの?とでも言うようなキョトンとした顔で「西島三重子の『池上線』をJAZZ風に歌ってんのよ。」と言って続きをまた歌い出だした。
ジリにはその歌が、まるでJAZZにも『池上線』にも聴こえなかったが、キリカがとても楽しそうに歌っていたので、敢えて何も言わないことにした。
それからジリは、ご機嫌なキリカを部屋まで送り、キリカのアパートの下にとめてあった自転車で、自分の家まで帰った。
部屋に帰ったジリは、冷蔵庫から冷えた麦茶をグラスに入れて飲み、服を着替えて布団に潜り込んだ。
キリカはもう眠ったかな。今日はどんな時代に行っているのだろうとジリは思った。
何にしてもいい時代だといい。
温泉に浸かったカバのイビキを遠くに聞きながら、間も無くジリも眠りについた。