七月
草野春心


  とおい七月の或る日、
  失踪してしまったひとがいる。
  ぼくの知らない
  東京の女の子。もしかしたら、
  新聞で読んだことがあるかもしれない。



  漫画を読んでいると彼女が
  ベランダに現れた。そして、
  こんこんと窓を叩いた。
  女の子は檸檬の匂いがした。
  どこから来たのと聞くと彼女は、
  幽霊みたいな顔をして
  そっと笑った。



  彼女はぼくに話してくれた。
  失踪のこと、
  東京の街のこと、
  彼女の家族のこと。
  母親は生きていたら八十になるという。
  父親は生きていてほしくもない。
  ぼくの淹れたほうじ茶を飲みながら、
  彼女はそんなことを話してくれた。



  その七月の午後のすべてを
  ぼくは彼女と過ごした。
  話すことがなくなったら彼女は
  また笑った。そんなときには、
  彼女のえくぼのうえで
  七月の光がそっと揺れた。



  夕方は寒くなった。彼女は、
  抱いてほしいとぼくに言った。ただ体を
  抱きしめてはなさないでほしいと。
  ぼくは彼女を抱いた。ぎこちなく、
  座ったまま……



  やがて彼女は言葉もなく
  ベランダからぼくの部屋を出ていった。
  窓のしまる音がすると、
  ぼくは一人ぼっちになった。



  ぼくも彼女に話したかった。
  学校のこと、
  ありふれた片思いのこと、
  虐められている友達のこと。それと、
  これからを生きてゆくことへの
  迷いのすべて。



  だれに話せばいいのか、
  だれに打ち明けたらいいのか、
  ぼくにはわからない。
  とうめいな沈黙に耳をすませていると、
  それがぼくの声だと気づいた。
  ほんとうにぼくは一人ぼっちになった。






自由詩 七月 Copyright 草野春心 2010-05-17 10:13:25
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