ゴルフバック
森の猫
嫌な品物、「ゴルフバック」だ。夫の秀太郎が、いつもゴルフ場から送ってくるのだ、この15年で何回受け取っただろう。ミサキは嫌々印鑑を押す。
奥のクローゼットまで引きずるように、持っていくのも一苦労だ。なんて重いんだろう、何本クラブが入っているかも知らないミサキは、この重さが無性に腹立たしい。自分の寂しかった、悔しかった思いが詰まっているかに思えるのだ。
夫の秀太郎は、入社当時からずっと営業職だ。新入社員研修のとき上司から「ゴルフはたしなんでおくように」と、強く助言されていたと宣言した。その言葉は免罪符ようだ。下手の横好きだが、営業マンはお客様より上手くては都合が悪いのだ。秀太郎の下手さかげんと照れ笑いが重宝がられ、新人のときから、ゴルフの接待は週末の恒例になっていった。その予定は絶対だった。初めての子供が熱が出ようが、妊娠中毒症で苦しんでいる妻がいようが、引越し前後の山積みの段ボールがあろうが・・接待ゴルフ=仕事と、ミサキは認識させられていた。
だが、そんなことはないことは、ここに2,3年でわかった。あとから入社してきた営業マンの中には、単にゴルフが好きではないという理由から、全く接待ゴルフをやらなかったり、緊急時には家族を優先させる人たちも、たくさんいることを耳にした。それを秀太郎に話すと、「そんな奴は、出世しないよ」と、鼻で笑って答えた。そうかもしれない、秀太郎は同期の中でも出世組で、今期の昇格で課長にとの内示があったばかりだ。ミサキは、そんなことはちっとも嬉しくなかった。家族が大変なときに社用とはいえ、ゴルフに迷わず行く、秀太郎が許せなかった。どんなときでも、ゴルフに行くのは秀太郎自身が選んだことだ。夫は、ゴルフが好きなのだ。それも、接待なら自費ではない、お金にうるさい彼にとっては、願ったり叶ったりの趣味なのだ。それでも、まだミサキの夫に対する愛情が冷めてないうちは、よかった。必ず、行き先と連絡先を聞き、それを冷蔵庫にマグネットで留めておいた。ゴルフの後飲み会で1泊ということも多かった。
ミサキはここ数年、結婚生活に疑問を持ち始めていた。長男は、小児ゼンソクで季節の変わり目には、発作を起すことが多々あった。その時期が、接待ゴルフの頻繁な時期なのだ。心配性なミサキは、長女妊娠中から、神経が不安定だった。そして、とうとう、産後ウツになってしまったのだ。ゼンソクの長男を抱えての乳飲み子の世話、毎日帰宅が遅い夫。それに加えて、週末のゴルフ・・うきうき外出していく夫は、ミサキが暗くうつろに毎日子育てをしていることなど、まるで関係がないかのようだ。うつの症状が改善し、世間のことが見えだすとミサキの疑念はどんどん大きくなっていった。
長男ももう中学になり、ほとんど発作も起さなくなった。娘も小5、生意気盛りである。
「やれやれ、子供たちもやっと手がかからんようになったなぁ」
ゴルフの前日、いつもよりずっと早く帰宅し風呂から出た秀太郎は、ビールをぷはっと飲みながら、ミサキに向かって言った。ミサキは頭のどこかで、プチッと切れる音が聞こえた。わかってない、いや、変わってないんだこの人は。翌日、いつもの様に夫は明け方からゴルフに出かけ、週明けの月曜またゴルフバックは届く。
ミサキは金曜の夜、子供たちに早く寝るように促しながら、ちょっとコンビニまで行ってくるねと伝言を残し、愛車を走らせていた。
15分も行くと、桜の名所がある2級河川のT川に着いた。こんなに近くにあるのに、花見に来たこともなかったことに気付いた。後部座席を開けると、あの忌まわしいゴルフバックを取り出した。数メートル下には川面が橋の照明で暗く光って見えた。護岸工事のしっかりしてある転がりのよさそうな場所を選び、ミサキは思いっきりゴルフバックを蹴り倒した。まるで人が落ちたように鈍い音をたて、それは見えなくなった。
来週はまたゴルフだ。秀太郎が宅配便でバックを出す頃には、ミサキも姿を消そうとネットでビジネスホテルの予約をとった。