春のまぼろし
黒木みーあ


のそり。枝垂れすぎた桜が、穴開きブロック塀の上を跨ぐようにして、地面に口づけをしている。ような格好で、あたしの方にお辞儀をしている。薄桃色の、明るい、花色。雨上がりの陽に触れてそれは、どことなく艶めいて見える。きっとまだ、誰にも触れらていないんだろう。そう思ってあたしはそのさきっちょをぽきり、と、へし折って手に取ってみた。(( ちく、と小枝が刺さる。僅かな、罪悪感。人並みの。風が、腹部の方から、突然やってきてあたしの、鼻先を突き抜けていく。吸い込む空気に、香る。中へ、中へ中へと、満ちて、いくように、春。

光合成。草木の、一年ぶりの、でもとても懐かしい匂い。あたしは道を行く。ごーすとりーと。無駄に広い、道幅。並ぶ家々には、剪定されていないままのレッドロビンが、四方八方に手を伸ばせる限りに伸ばしたと、言わんばかりで、(( 頭の、隅っこの方では、"垣根の定番!成長の早いレッドロビン!"と、いなくなった父が、勝手に補足を始めている。道なりに、角を曲がる。その右手やや前方、片手を高らかに空に向けているかのような、痩せ細った梅の木が一本、空き家の庭で、今にも死にそうに、生きているのが、見えた。

   *

 背中を、蹴られたことが、あるのです。誰とは言わず、誰にでも。そんな時、いつも、存在しない理由は、追撃のように背中を貫通して押し寄せてくるので、わたしのからだは、それらに耐えうる強度を手にした驚くほどタフな、からだ、で、あれたなら、嘘、ばかり生まれることも、なかった。はず、でした。お医者さん、が、言うにはどうも、わたしの、わたしが、わたしであること、にも、原因が、あるらしく、て、(( こ、の、ヤブ!とかなんとか、父がまた、頭の中で叫んでいます。それはいつも遠い、感覚に似ていて、母は、きっとそこには、いません。たぶん家にも、いません。

   *

暗、転。陽が陰ると、なぜだか世界は暗くなるようで、そんな時はいつも、瞳、の、奥の方、くすぶっていたあたしが顔を出す。おはよう。って、角を曲がった先で、猫。今日は、晴れ、時々曇りみたいだね。そんな風にほんの、少しだけ、互いに半身を並べて、しばらくの間並行に、歩いていく。(( 意識、しないように、横目で。きっと猫もあたしを、意識、しているんだ。そのうちに、突き当たる。次の角。右か、左。一瞬、立ち止まった。猫も、あたしも。

   *
 
先天性の、ものでしょうと、ため息混じりでお医者さんが言うのです、から、から、今のわたしは、必ずしもわたしのせいでは、なくて、ねえお父さん、見てください。(( 聞こえているのなら。今日も、ああこんなにも陽は、あたた、かいのです。もう、春です。風の、匂いに溺れてしまいそうで、今年も、またからだの中を春が巡って、いくから、(( 震えて、しまうわたしの、癖。わたしの、わたしたちの真昼を、言葉にはなれない言葉の光で、満たしていく、みたいに薄明るく眩しくてまだ、その陰りの反動が、どうしても怖いの、です。

   *

互いに、あたしはお尻を、猫はキュートな尻尾を、背中で見送り合って、別々の道を行く。すぐにまた陽が射してきた。それと同時に、肌寒い風が急に勢いをなくして、やさしく頬を寄せてくる。またひとつ空き家を通過する。古い、平屋建て。誰を迎え入れるわけでもなく、クレマチスが花を咲かせている。ここにも、春。旅人の喜び。という花言葉を思い出す。(( 声色の、高い、母の声がする。父のいない、まどろみの中。春の、陽だまりの中で、聞こえる。母の、声はいつだって、いつだって笑っていた。確かなもの。陽だまりの中では、母の声、は、

   *

―――お腹が空いたなら、道に生えている花を食べます。
意外に美味しい、花の蜜。は、ささやかな、生きている喜びを、晴れている時にだけ、時々、くれたりもしました。幼い頃の、帰り道、暮れていくのは日だけでは、なくて、焼けていく空には、わたしの亡霊が束になって重なって、いつも一緒に、燃えていました。散りじりに、裂けて消えていく雲の、姿。巡る、血の色。人であるように、わたしも、ほんとうは安心したかった。

   *

遠くへ、歩いていたはずの、あたしは何故か、さっき歩いてきた道を、また歩いている。角を曲がる。空き家の庭の中、梅の木が立っている。死にそうな、あたしに負けないくらい、細い、からだ。指先に紅色の、春を、僅かに巡らせている。脈々と、脈々と。そんな風にしてあたしは道を、戻っている。また、戻って、いる。
(( 立ち止まる。さきっぽの折れた、枝垂れた桜。しゃがみ込んだ細い、後姿が目の前で、静止する。止まったように、血が、引いていくのがわかった。頭から突然に、よろめく。手をかける、ものがない。

桜の淡い、花色に似た、民族刺繍。ホルターネックのサロペット。
もうひとりの、あたしの、後姿。

   *

目の前で、立ち上がる。桜の、小枝を手に、持ったまま。水溜りの中へ、飛び込んだ陽が風にゆられて、あたしの瞳へ、跳ねてくる。眩しい。消えていく、もうひとりの、あたし、の、後ろ姿、消えていく。目を、閉じる。

今にも、零れてしまいそうな陽だまりの、中で、




  ((  ――風の匂い。花を食む感触。
          目を見開いた、
 ゆびさき、ふるえながらわたしは、夕空に燃えるわたしの亡霊を、
      見つめて、いる。










 


自由詩 春のまぼろし Copyright 黒木みーあ 2010-04-17 07:26:37
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