ぼくのだいすきなキリン
蠍星

ぼくのだいすきなキリンは
いまは海の底に居る

まだぼくの魂が
果実のようにやわらかだったころ
キリンが夜泣きをやめられないぼくの
なみだをそっと舌でぬぐってくれたのをおぼえている
キリンのひとみはビー玉の透明さで
ぼくの半分ほどの背丈で

ぼくのだいすきなキリンは

ぼくの日々はかなしみに充ちていた
キリンといっしょに眠ったし
キリンといっしょにめざめたけれど
ぼくは毎晩ひとりで泣いていた
ぼくのなみだはくるぶしのあたりまで濡らしていた
ぼくのなみだはキリンのひづめも濡らしていた

とうとうぼくののどのあたりまで
なみだが攻めてきた
あんまりに冷たいので
ぼくはまた泣きたくなってしまった
キリンはちゃぷんとなみだの水溜まりから立ちあがり
細ぼそとした尾でぼくをうながした
背中におのりよと
彼はいつのまにかぼくを追い越して
ずっと背が高くなっていた
ぼくはキリンのたてがみに
メロンのような網目もようにほおを埋め
ユーフォニアムの音色のようないななきに耳をすましていた

ぼくのだいすきなキリンは

キリンはぼくをのせて
ぼくがかなしいときはなみだをぬぐってくれた
キリンはぼくのかなしみを
そのうつくしい毛並みに沁みこませて
頸を伸ばしていった

ぼくの部屋の天井になみだがとどいた
ぼくの家の屋根になみだがとどいた
電信柱のてっぺんにもなみだがとどいた
小学校の屋上にもなみだがとどいた
キリンの頸は
もうこの街のどんな建物よりも高く
たくましくなっていた
キリンのひづめはもう遠くて見えない
ぼくの部屋もじめんも
もう遠くて見えない

ぼくのだいすきなキリンは

街が海に変ってひさしい
キリンは孤独な海をのんびりすすんだ
ぼくはキリンの頸すじにすがって
かなしくて泣いた
みなもに銀色のうずまきがほろほろと広がった
無辺のなみだにキリンのあたまが
空をこすりながらすすんだ

(ぼくのだいすきなキリンは
 あるときはだいすきな絵本だったし
 あるときはだいすきな歌だった
 あるときは恋であったし
 あるときは別れであった
 ぼくのだいすきなキリンの頸の長さは
 ぼくがおとなになる為の時間
 そのものだった)

ある日キリンは立ち止まった
キリンは言った
「きみはひとりでおゆきよ
 ここに陸がある」
見ればたしかにそこに陸がある
けれどこんなに太陽がちかくては
あのまっしろな砂でやけどをするだろう
だってぼくの足のうらは
なみだで潤けてしまっているから

「きみはひとりでおゆきよ
 ここに陸がある」
キリンの声をききながら
ぼくはキリンのひとみがもう透明でないことを知った
キリンの長いまつげがかくしていたのは
まぎれもなくかなしみだったので
ぼくはひとりでゆくことにした
キリンの背中からおりて
ぼくはひとりでゆくことにした
かよわい足のうらがただれても
ぼくはひとりでゆくことにした

ぼくは痛みで泣いた
ぼくはかなしくて泣いた
ぼくはキリンをおもって泣いた
ふりかえるともう
キリンははてないなみだにしずんでそれきり
見えなくなってしまった

ぼくは陸で生きている
ぼくははだしで生きている
ぼくのだいすきなキリンは
いまは海の底に居る


自由詩 ぼくのだいすきなキリン Copyright 蠍星 2010-04-11 19:01:05
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