テーブル農園のトマトに花が咲く。それから
なき

 きいちゃんに花が咲いたよ、久しぶりの電話口の良司の声は無邪気で幸せだった。よかったね、と返しながら私は良司の子供のような声に安堵のような興ざめのような脱力感を味わっている。
 きいちゃんは黄色いトマトだ。まだ実はなったことがない、若い苗だ。良司はきいちゃんは絶対に女の子だと言って譲らず、毎日毎日声をかける。きいちゃんおはよう。きいちゃんお水の時間だよ。きいちゃんいい子だね。きいちゃんただいま。きいちゃん綺麗。きいちゃん土が乾いてるね。きいちゃん大好きだよ。きいちゃんおやすみ。きいちゃんきいちゃんきいちゃんきいちゃん――
 私にしてみれば植物なんてまるで地球外生命体に等しく、遠く、不可思議で、どうでもよかった。私は野菜嫌いではないし、便秘症気味なので毎日キャベツやらごぼうなどの食物繊維を大量に摂取し、水分とヨガ体操を大切にしているが、植物との関係は便秘解消以上でも以下でもない。観葉植物もベランダのハーブも、もちろん大根のへたを水につけたものも、ない。きいちゃんきいちゃんと言って葉が黄色いとか茎が伸びないとか、そんな悩みを真剣に暗い顔をして語り、何度もため息をつく時の良司はきいちゃんと同じく地球外生命体に見える。
 良司はきいちゃんがつけた花の色や触感や匂いなんかを事細かに説明しているけれど、部屋に見に来るか、とは言わない。最近はもはや暗黙のルールとして良司から電話が来るのを私は辛抱強く待たねばならず、一ヶ月ほど溜まったきいちゃんの話を良司が満足するまで聞き流さねばならず、最後の最後に一生懸命自分を励まして部屋に行ってもいいかどうかを尋ねなければならない。すげなく断られることもあるし、機嫌よく了承してくれることも、不承不承、ということもある。それも私たちのルールだ。付き合ってから一年が経つけれど、たったそれだけのことに緊張している自分もいる。別れちゃえばいいのに、っていうか遊ばれてるんじゃないの、と二十一歳の妹の朱実は言う。――沙代子ちゃんはさ、もうちょっと自信持ったほうがいいって。顔だって可愛いんだしモテないわけじゃないんだからさ。男なんていくらでもいるじゃん。どうして良司くんにこだわるわけ?
 「なあ、やっぱりもう少し鉢植えデカくした方がいいよな」
電話の向こうで良司が発した言葉が突然耳に飛び込んできて、私はすかさず相槌を打つ。
「そうね。またこの前のホームセンターに行く?それなら、私も行こうかな」
良司はちょっと黙った後、困ったような声を出した。
「なんで」
「コルクボードが欲しいの。いろんなものを留めておく」
良司が何か言う前に、おなかに力を込める。
「それに、せっかくだからお花をつけたきいちゃんにも会いたいわ」
一体いつからなんだろう。安堵のような興ざめのような脱力感が体から離れなくなったのは。心臓だけがどくどく動く。


散文(批評随筆小説等) テーブル農園のトマトに花が咲く。それから Copyright なき 2010-04-05 00:57:27
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