戦後詩ーユリシーズの不在ー寺山修司を読んで感じたこと
……とある蛙

詩って???

詩人とは何?

詩人は職業ではない。
詩人とは形容詞だ。
美人と同じようなものだ。

詩人は職業ではない。
詩人とは性格である。
貧相な詩には貧相な人格が透けている。

詩人格という言葉ができそうだ。
世に詩人と呼ばれている一握りの誤解して生きている人達
結局、詩は小さな世界だけの表現で善しとしているのか

つまり詩を一番よく読むのは詩人と呼ばれる一握りの人達です。
これでは二級芸術になってしまう。仲間内だけ通じる駄洒落のように自分たちだけで分かる言葉で表現すればよしとするようになり、保守的な難解さ(?)がもてはやされてしまう危険性を持っている。
 難解さが楽しめれば、それはそれで一つの芸術になるかもしれないが、個人的には大嫌いだ。詩はもっと楽に楽しめるものでなくてはならない。もっと楽に感動を伝えるものでなければならない。

※ 橋本忍(脚本家)はテレビのインタビューで上手に脚本を作るこつは、自分が批評家になって自分自身を評価してはならないということを力説していた。つまり、自分で自分の作品を自己批判していてはいつまでも独創的なものはできないのだ。創作とはそういう種類の作業だ。批評家とは過去の基準でものを評価する人たちであるから、過去の基準で自己の創作を評価し、だめ出しをしてしまっては独創的なものはできないからである。

マイナスの批評が怖い人は結局、詩自体を書きたくても書かないか仲間内に分かる詩だけを書くようになるのではないか。

※2 逆にこのことは、鑑賞者にある程度の素養が要求されることを意味する。つまり、詩に感動するには、詩をある程度読むことは必要なのです。この矛盾。朝令暮改です。しかし、楽に感動したい。

 日本の戦後詩の自己中毒性はこんなところにもある。過去の反省と言いながら過去を反省するようなスタイルをつくってしまう一群の人たちもおり、自分たちの仲間内で詩に対する大層な役割を規定してしまい(仲間内での話なので世間は知らないー地底人の地球侵略の相談のようなもの)詩をつまらないものにした。

※3 前向きな明るさを持った詩は谷川俊太郎の詩を待たなければならない(彼の詩は生きる強さ明るさがありますーことばあそびの楽しさも思い出させてくれます)。

 詩を書くものは嘘つきであるべきだ。嘘つきが定着しなければ普遍的な表現形式にはなれない。私小説的世界では一部の人たちにしか理解されない。

しかし、同じ嘘つきでも
ナルシズムに堕している詩は嫌いだ。
疑似悲劇的な詩も嫌いだ。
気取った詩も嫌いだ。
照れている詩も嫌いだ。

詩に解説は不要だ。
詩に誤解は付物だ。
ただ丸ごと愛せなければ
詩何ぞは好きになれませんよ。

Kさん!

ところで、Kさんって誰?


散文(批評随筆小説等) 戦後詩ーユリシーズの不在ー寺山修司を読んで感じたこと Copyright ……とある蛙 2010-03-29 16:23:50
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