あどけのない空洞
真島正人
1
それは
空洞と
いう名前の
留保に過ぎないのだと
口に出していた
或る夜
人はすべて
寝静まり
ベッドの上で時間が
ぐんにゃりとする
長い廊下のように
萎縮した
自意識が
かちん、かちんと
音を立てそうで、
音を立てない。
病院のような
嫌な静けさ、
赤茶けたタイルを
踏みにじる看護婦の
足音が欲しい
2
「記憶を
泥酔させればいいのさ」
と
教えてくれた友人が
連絡を絶ったのは
ずいぶんと以前だ
僕は酒をやめ
しらふを維持し
この体の自由の
維持費なんぞは
払う気もない
8ヶ月経てば
何かが見えると
自己完結の文体で
つづられた楽譜
弾いてみたら
それは
ソナタの形式。
硬い音がする
柔らかい音もする
動く部分がある
動かない部分もある。
疑心暗鬼が
音になって
漂流する気持ち、
わかるか?
3
遠くに空いた穴を
ぼんやりと
見つめていたら
樹が生えてきた
がんじがらめ
触手のような根っこが
土くれと闘っている
口笛を吹いて
抵抗すると
夜から
野良犬の匂いが消えた
ふいにやってくるカタルシス
肩から担いでいた
ずた袋に
母の日記を入れ
時代遅れの鉄道に乗り込む
あの穴まで
一駅
さらに先の穴まで
七駅
液体状の
幸せが
染み出してくる場所までは
十七駅も
かかる
あぁ
船で行ったほうが
良かったかもしれない
4
情けない
情けないなぁと
母親が
按摩師の男に語りかける
僕の頭の中で
繰り返し
さげすまれているのは
むしろ
あなたの言葉だ
あなたは
生んだことを後悔した
あなたは
生まれてしまったものを
捨てようとした
抱え込み
負担を増やすことで
体がだんだんと
破綻をきたし
ついえてしまうことを
恐れすぎた
あなたが
繰り返し吹いていた
無意識の
口笛が
僕のこの楽譜の
一部を成した
幾度でも言うが
まるで骸骨のような
角ばった
陰湿なソナタ
病院に似た
暗い赤茶けた廊下で
看護婦が踏みつぶすような
意地汚いソナタ
地獄の炎に焼かれるとも
灰になることのない、
最後まで残るものは
美しい部分ではなく、このような
硬い、概念から遠く隔てられた、それそのものの
空気から、遠い、
物質
ヴィタミンは
空気に触れ
壊れるらしいが
それは
空気には
破壊されない
在ること
だけを
否定し続け
在ることから
隔てられたが
それは壁を伝い
簡単にここへ来る
ここへ来ることのたやすさに応じ
私たちは消えてゆく
消えてゆく
消えてゆく
みんな
5
目を閉じて
うつぶせに
背骨から
熱い炎が
沸き立つのを感じる
それに焼かれ
皮膚は
引き攣って嘆き
そして
更新される
新しい資質を
獲得することの喜びが
樹になって
生える
生える
生える
そして、
行き着く先は、
森!
森のような、
暗闇!
そこに立てられた
陰湿で偉大なる
標識!
からんころんと
絶え間なく
立てられる足音がする
その、
足音をまずつぶせ!
皮膚の組成から
破壊しろ
破壊しつくせ
6
どこからか漂う
生き物の匂い
それが僕を圧縮する
陰険な楽譜よ
懺悔をしろ
君はあどけない笑顔のために
歌うべきだ
悲しみは
弾く人を選ばない
誰が弾いたとて
変わらないソナタ
そんなものは
もう止せ。
対岸は
火の海になった
こちら岸が
燃える日も近い
僕は日記をつけておこう
最後通告に見えない
あどけない日記。
人が見たら
きっと無邪気さに
失笑する。
誰だって
失笑を買えるわけではないから
それは僕の
才能だとしよう。