シコシコ
攝津正

二千十年二月九日火曜日執筆開始

 攝津は船橋在住(七十四歳の両親と同居)の、浦安の倉庫で働く三十四歳独身(同性/異性のパートナーが居ない)である。佐々木病院という精神病院に通っている。診断名は社会不安障害である。闇のソーシャルワーカー・デス見沢の見立てでは抑うつ神経症2/10である。ユーキャンで簿記三級と日商パソコン検定の通信講座を受講している。基本的に朝七時に家を出て夜八時に帰る生活で、夜十時からはインターネットラジオをやる。内容はピアノの即興演奏である。段々認知されてきたのか、昨日もリスナーが六人居た。聴いてくれる人の存在がありがたい、と攝津は思う。
 攝津には前田さんとiwaさんという二人の友がある。彼らの存在に励まされて、音楽なり文学、哲学なりを続けられているようなものだ。前田さんは、自分は攝津を褒め殺すかもしれぬ、と語る。それ程の攝津ファンである。世界唯一の攝津ファンである。有難いが、どうして攝津の事をそんなに褒めてくれるのかはよく分からぬ。Q-NAM以来の付き合いだが、Q-NAMには多様な才能の持ち主が居たのに、何故攝津なのか、がよく分からぬ。
 前田さんはビートルズファンで、自分で曲も作る。『虜』『約束』などは完成度が高く、見事なものだと攝津は思う。ジャズを勧めたが、二日で耐えられなくなったという。ビリー・ホリデイとチャーリー・パーカーから入ったとの事で、それはそうだろう、エラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーン、ソニー・ロリンズから入るべきだと攝津は忠告した。生粋のジャズファンでも、いきなりパーカーから入ってパーカーを理解したという人は少ない。何度も挫折を重ね、或る日パーカーが分かるようになる、という体験をしてきている。攝津自身もそうだったしiwaさんもそうだったし、いーぐる後藤さんの掲示板に集う人達もそうだった。
 ところで攝津は、『労働』を連作にする事にした。原『労働』を第一章、『生きる』を第二章、第三章は『シコシコ』と題する事にした。そうしたのは、自慰であるという自虐と、シコシコ地道に更新するという意味を兼ねてである。

 冒頭、『生きる』に入り損ねた断章を入れて置こうと思う。
 攝津は爽風会佐々木病院に通院し、T先生の診察を受けた。出社恐怖の原因が思い当たったと話すと、それは良かったと。躁鬱なのでは?と問い掛けると、それはない、と否定。不眠時の薬を新たに追加して、終了。明日、どうすれば早退せずに済むのかは訊けなかった。
 帰宅すると芸音にドラムをやる高校生Mくんが来ていた。ドラムセットを購入する計画を攝津の母親と話していた。それが終ると、家族で食事。そして、原因不明の疲労感の為、寝床で休んだ。朝青龍の夢を見て目覚めたら、いつの間にか十五時十分前、守田皮フ科クリニック受診の十五分前である。飛び起き、急いで準備して父親の車で病院に向かう。右足に出来たタコを切除して貰い、水虫の薬を貰って帰る。ウォルター・ビショップ・ジュニアの『ピアノ・ソロ』とジョー・ヘンダーソンの『インナー・アージ』を聴く。

 「原因不明の疲労感」これが鍵である。この為に攝津は苦しんできた。休日欝の根本症状でもある。平日は、労働していると夕方頃元気になったりするのだが、休日は逆に、夕方頃から夜に掛けて抑鬱が深まった。理由は分からないが、それに苦しんできた。休日が休日欝で、翌日それを引き摺り早退、その翌日は欠勤、というパターンを繰り返してきた。だから昨日は、そのパターンを断ち切る為抑鬱不安で非常に苦しくとも早退せずに頑張ったのである。結果、上手くいった。今日も上手くいけばいいな、と思う。
 毎日休まず働くという当たり前の事が難しい。以前は出来ていたのだが。欠勤・早退せずに一ヶ月、二ヶ月通して働く事も出来ていたのだが。思い返せばその頃も、シビアな抑鬱に堪えて早退せず堪えていたものだった。今も昔も変らぬ。問題は、堪えられるかどうか、だ。気持が切れてしまっているかどうかだ。強い気持で臨まないと駄目だ、と攝津は自省した。

 攝津は自殺しなければ、今の苦しみから逃れる事は出来ぬと考えてみたりもする。自殺したいという考えは二十年以上前から続いていた。逆に言えば二十年以上も生きてきたのだから、今後も生き続けられるとも言えるかもしれなかった。それはよく分からぬ。
 攝津が自殺を願うのは、音楽の悪魔的な力に囚われたが故であった。十四歳の時に聴いたホロヴィッツの衝撃以来、自分の到達出来ぬ高みに音楽芸術があり、それに到達出来ぬ自分は死ぬべきだとの考えが頭を離れぬ。音楽を止めて、或いは趣味だけにして、普通に・平凡に暮らそうという考えは攝津には無かった。平凡を否定する事が逆に凡庸さの証であった。攝津は亜インテリであったのと同じく、似非芸術家、三流ピアニスト志望者でもあったのである。
 皆が皆、口を揃えて、文章でも音楽でも食ってはいけぬ、どちらかと言えば文章のほうがいい、音楽でというならピアノより三味線のほうがいい、と言った。だが攝津は、ジャズピアニストになりたいのだった。自分の不器用さや限界はよく認識していた。だがそれでも、そう願う事をやめる事は出来なかった。
 今日、石田幹雄という人のライブに行ったが、攝津は嫉妬を感じ、猛烈な自殺衝動に襲われた。何故、自分ではないのか。どうして、自分では駄目なのか。答は自分自身が駄目人間だからという事以外無いのだが、それを問わざるを得ず、それを問うたびに肉体的・精神的・神経的な苦痛が萌した。苦痛は攝津を解放の願望へ誘い、それは死を意味した。解放者としての死。一切の苦痛からの、あの根本的な「自分苦」からの解放者としての死! だが、攝津は死ねぬのが分かっていた。それは「人倫」の故である。自分が死んだら親が悲しむと思うから、死ねない。親が亡くなったら、親から解放されたら、唯一の自発的な自由な自分の行為は自殺であろう。生からの解放であろう。それ程攝津の生への厭悪、死への執着は強かった。
 攝津は二十年以上も死にたい死にたいと思いつつそれが許されぬという状況で生き長らえてきた。その間、音楽家になろうと試みた事は一度や二度では無い。だがその試みは全て失敗してきた。無数の試みの失敗の結果が今の駄目人間な攝津である。惰民の攝津である。惰性で生きている攝津である。
 希死念慮は、ソニー・スティットの『ペン・オブ・クインシー』を聴きながら帰宅するうちにいつのまにか和らいでいた。自宅に居ると、いつもと変らぬ自分が居た。母親は無邪気に、今日のライブはどうだったか、ベースの立花さんは一緒にやろうと言わなかったか等と訊いてくる。それが攝津の音楽家としての誇りを再び傷付ける。だが攝津は、何事も無かったように淡々と答えるだけだった。ライブに行って死にたくなったなどと親に語っても理解されぬのは必定だからである。
 母親が作ってくれたオムライスを食べた。そして一階の店に降り、この日記を書いた。今の気分は灰色である。澱んでいる。決して爽やかではないが、激烈に死に向っている訳でもない。ただぼんやりと欝である。

 月曜日攝津は早退した。親に自殺したいと言うと、死ぬ人間がどうしてCDをそんなに買うのかと問うてきた。尤もな意見だ。攝津は、死にたいと思いつつ、自己愛故に死ねないのだった。そんな中途半端な状態を二十年以上続けてきた。惰性と諦念をもって生きている。自分は死に切れないのだという諦念。死ぬ勇気や覚悟が無いのだという自覚。攝津は正直に言えば死ぬのが怖かった。痛いのが厭だった。また、家族など周りに迷惑を掛けたくないとも思っていた。だが、攝津の状況はどう見ても行き詰まりそのものだった。音楽家になりたいが、なれない。技術が無く、音楽家になるのに必要なものが何一つ無い。だから音楽家になれない。倉庫内作業員である。その現実を受け容れねばならぬが受け容れられぬ。痙攣的に身体が、情念が拒否反応を示す。拒絶。厭だという感じ。反射的な否定。
 攝津は、自殺するか音楽家になるかの二者択一だ、と思った。だが厳しい二者択一だ。どうすれば音楽家になれるのか、攝津には見当も付かなかった。石田幹雄や松本茜を見たが、自分が彼・彼女らのように指が動く日が来るとは到底思えなかった。自分は駄目だ、駄目人間だ、と攝津は思った。ブログにコメントしてきた人が言うように、凡庸だ…。凡庸さに堪えられぬから死ぬしかないのであり、それをどうにかしなければならぬ。
 この苦痛と困難に満ちた生を継続するのが良いことなのかどうか、攝津には判断が付かなかった。攝津は借金漬けだった。借金を返済する為に働いていたが、それも限界に来ていた。精神的、肉体的、神経的限界。もう辞めねばならぬのか、と攝津は自問した。やはり一生の仕事にはならなかったか。良い職場なのに。福祉的な所なのに。去らねばならぬのか。辞めねばならぬのか。それ程に攝津の病気は酷いのか。病気、というより、ビョーキと言った方が良いかもしれぬ。音楽家にならねばならぬという固定観念。植え付けられた信念。音楽家になれねば死なねばならぬという命題が何処から来たのか、攝津にはよく分からなかった。親からか。そうかも知れぬ。CDからか。そうかも知れぬ。攝津は中学生の頃神経症を発症し、ホロヴィッツの芸術に衝撃を受ける迄は、自分の音楽に満足していた。その後、本物の音楽というのはそんなものではないのだという感を持ち、精進したが無駄だった。音大には入れず、攝津は早稲田大学に入った。嗚呼、しかしそこでもモダン・ジャズ研究会に入っていれば! また違った未来があったのかもしれなかった。だが、過去の過ちを幾ら悔いても時間は戻って来ない。五月に、攝津は三十五歳になる。三十五歳限界説というのが攝津の頭をかすめる。自分はその三十五歳だ。もう転職できぬのか。もうどうにもならぬのか。気持ばかりが焦るだけで、どうにもならなかった。

 火曜日攝津は欠勤した。死にたい気持は無くならなかった。仕事も辞めたかった。だが、収入の道が無くなり借金が返せなくなると思うと、簡単に辞める訳にもいかなかった。mixiやフリーター全般労働組合、レイバーネットなども辞めようか迷っている。衰弱が著しい。酷く苦しい。堪らない。人との交流に傷付く。人と触れ合えない。他者の言葉なり評価に堪えられない。

 攝津は、ピアノを辞めれば自分の人生問題は解消するかと思ってみたりもした。ジャズ・ピアニストになりたいという身分不相応な願いが人生を駄目にしている。であれば、そう願う事を辞めれば、人生が好転するのではあるまいか。心の何処かで、倉庫内労働者では厭だ、芸術家になりたい、という気持がある。それが自分自身をずっと苦しめている。ならば、そういう芸術家志向を無くせば、幸せになれるのではないか。普通で凡庸な倉庫内労働者としての自分を肯定できれば、受容できれば、承認できれば、幸せになれるのではないか。攝津にはよく分からなかった。
 焦るのを辞めてみよ、とも思ってみたりもする。インターネットラジオで即興演奏を披露する、それだけでいいではないか。焦ってそれ以上、上を目指さなくても良い。いきなりプロを目指さずとも良い。自分の現状に自足せよ。そう思ってみたりもする。
 攝津は自分の事を、三島由紀夫の『豊穣の海』の安永透のようだと思ってみたりもする。自分が特別だと思い込んでいるが、何ら特別な所など無い贋物。或いは本多か。認識に生きる生。攝津は前田さんやiwaさんが本多だと思ってきたのだが、それは傲慢な考えかも知れぬ。自分が行為者の側にいるとどうして言えよう。(哲学、文学、音楽も「行為」である。)精力的に録音に励む前田さんのほうが「行為者」、攝津のほうが「認識者」かも知れぬではないか。だが、『豊穣の海』の図式を無理に自分に当て嵌めなくても、とも思った。

 攝津はその週、まともに働く事が一日も出来ていないまま金曜日を終えようとしていた。一時は死ぬしかないと思い詰めていたが、猫の目のように気分がころころ変り、今は相対的に落ち着いており、死ぬ必要は無いと思えた。明日は出勤出来そうな気もしていた。
 音楽家になるのを断念し成熟すれば病気が治る、そう単純な物ではないらしいのは分かった。プロになる、有名になる、上原ひろみ超えなどは無理だろうが、弾き続ける事は出来るしそうすべきだ。そう思えた。
 今の仕事が続けられるかどうかは分からぬが、とにかく、死に急ぐ必要は無い。そう思えた。

 土曜日、攝津はやはり早退した。体調管理が出来ないとの事で来週は一週間休職という事になった。一週間経っても安定した出勤が出来ぬようなら退職もやむを得ぬであろう。自分は今、クビ寸前ギリギリ、破産寸前ギリギリの所に居るのである。デス見沢からは、自分の置かれている状況を見るのが怖いんでしょと言われたが、確かにそうだ。攝津が置かれている状況は客観的に見て悲惨だった。パートタイマーで、しかも出勤も出来ないという。クビになったら、次の仕事のあても無い。自分を雇ってくれそうな所を一つも思いつかない。と言って文筆や音楽で生活出来ると思える程楽観的にはなれなかった。
 休職が決まって、一ヶ月余振りに録音と写真撮影をした。攝津には自分の姿が醜く見え、プロフィール写真から外し、ピアノの画像を代わりに置いた。自分の顔は見るからに病人という感じの不健康な物であった。自分の演奏は拙く下らぬものだった。聴き返して意気阻喪した。自分は駄目人間だと思った。ダメナ人である。
 労働も駄目、芸術も駄目、何もかも駄目な凡庸な人。下らぬ人。卑小な人。攝津は尚更自分で自分が嫌いになった。働く事も出来ぬなら、死んだほうが良いのではないか? 金稼げないなら死んだほうが良いのではないか? 金、金、金…。原稿料などはたかが知れていた。投げ銭やカンパも少額だった。生活するには賃労働せねばならぬが自分にはそれが出来ぬのだった。そして両親は七十四歳。自分は三十五歳。ピンチである。だが、助けが何処からもやって来ないであろう事は容易に予測出来た。

 攝津はもう自分には死ぬしか無い気がしていた。自殺するしか無いのではないか、と。もう生きる道は見出せなかった。仕事を一週間休んで、体調が元に戻る保証も無かった。仕事が出来なければ収入が無く、経済的に破綻する。ならば死ぬしかないのではないか。
 デス見沢は親に食わせて貰えと言うが、両親ももう七十四歳。収入も殆ど無かった。親に頼ろうにも頼れなかった。三十五歳の世間で言えば働き盛りの筈の自分が何も出来ぬのがもどかしかった。だが、出来ぬ物は出来ぬのである。どうにも仕様が無い。
 生きて行く事が出来ぬ。生きられぬ。
 朝昼晩と攝津は衰弱を感じた。苦悶していた。ただただひたすらに苦しかった。神経性の苦しみは消せない。ただ苦しむしか無かった。堪えるしか無かった。薬も大して効かなかった。地域生活支援センターに行って相談しても根本的な解決は見出せなかった。攝津は自分に救いがあり得るという事に懐疑的だった。自分は死ぬしか無いのではないか、その方法と日時だけが問題だ、と考えてみたりもした。だが、死ぬ勇気と決断力がどうしても出て来ない。結局、惰性で生きる事になる。死ねない。
 こういう事を、二十年間も繰り返してきたのだ。その間人生浮き沈みはあったが、基本は変らなかった。今後も変らぬであろう。そう思うと暗澹とした。自分は生きるのが下手なのだ、と攝津は考えてみたりもした。不器用で、なっちゃいない。どうにもならぬ。
 この駄文も堂々巡りの同じ事の繰り返しである。何の価値も無い。それをどうする事も出来なかった。

 木曜日、攝津は来週から仕事に行こうと思った。昨日迄は辞める積りであった。木曜日、退職願いを郵送しようと思っていた。だが、木曜日になってみると、仕事に行けるような気になってきたのである。実際行けるかどうかは、行ってみなければ分からぬ。出勤を続ける事は無理だと判明するかも知れぬ。だが、やってみなければ分からぬ、と攝津は考えた。始めから諦める必要はないと。
 自分の判断が正しい、或いは妥当なのかどうかは攝津には分からぬ。あれだけ苦しかったのだから、もう限界かも知れぬ。或いはまだやれるのかも知れぬ。それは分からなかった。だがやってみようと攝津は思った。

 友人が来て帰った。盛んに攝津の事を具合が悪そう、辛そう、大丈夫か?と言う。攝津は、自分は他人から客観的に見てそんなに病気に見えるのか、と落ち込んだ。確かに主観的にも苦しいが、客観的にもそう見えるのか。
 来週からの仕事への復帰に自信が無くなった。もとより自信がそんなにある訳でもなかった。出勤してみて具合が悪ければ辞めようと思っていた。
 そういえばデジタルカメラで自分の写真を撮影して、パソコン上で見た時、その醜悪、というか、「病人っぽさ」に辟易した事があった。やはり客観的に見て、具合が悪く、病気なのだろうか。だとすればお仕事は無理、だろうか。
 賃労働が無理なら、どうすればいいのだろう。考え込んでしまう。Cafe LETS? 今度は失敗は許されない。

 悟ったと感じる事がままある。錯覚である事が多い。認識に至ったと思うが、至れていない。生活が変らぬ。何時迄も同じ事の繰り返し、堂々巡りなのだろうか。

 攝津は花粉症に罹った。という文で始まる断片で、『シコシコ』を終らせようと思った。つまり、『労働』『生きる』『シコシコ』の「自意識(過剰)の魔」三部作を終らせようという事だ。攝津は『シコシコ』の終りを『労働』の終りと同じにしようと考えた。つまり、凡庸なる日常への復帰、快癒として終らせようと思ったのだ。
 二月に何故、攝津が崩れたかは明らかに、ライブを見に行くようになったからである。それ迄CDを若干買い、平日は倉庫で働き休日はラジオをする卑小な自分で自己完結していたのが、他人のライブを見に行くようになって、嫉妬の心が生じた。つまり、何故自分はアーティストになれないのかと言う事を深刻に悩むようになったのである。そして、倉庫内労働者である自己が耐え難いと感じるようになった。
 昨年末から二月に掛けて、妹尾美里、橋本一子、石田幹雄、二代目・高橋竹山、松本茜、兵頭佐和子、宮野寛子とピアニスト中心に多様なアーティストを聴いてきた。その度に攝津は敗北感に打ちのめされた。自分の表現は此処には届かない! 自分は素人でしかなく、「プロ」になど未来永劫成れる筈が無い! そういう思いで一杯になり、攝津の下らぬ自意識とプライドは粉々になり、「ドラえもん」=前田さんの「褒め殺し」をもってしても維持出来ぬ迄になった。それが攝津の病気の根本原因である。それと、フリーターズフリーに依頼されて、残酷な自己分析の文章を書いたのも病気に拍車を掛けた。冷徹に自己認識を進めて行くと自分は死ぬしかないように思える。その認識が攝津を切り刻み責め苛んだ。攝津は自分自身の自己分析で病んだ。分析が癒しではなく病を齎した。攝津が等身大の自分を見つめるという事は卑小で駄目でどうしようもない行き詰った自分を見つめるという事であった。学歴が何の役にも立っていない、何の才能も無い凡庸なる自分自身の姿を見つめるのは恐ろしかった。攝津は外面的にメタボ豚で醜悪なだけでなく内面的にも崩壊していた。攝津には「自分自身を維持する」事が出来なくなっていた。それで崩れた。仕事に行けなくなった。
 だが攝津は、三月以降はまた凡庸な日常に、倉庫の仕事に復帰出来そうな予感がしている。あくまでも予感である。実際に働いてみないと分からぬが、昨日迄退職する積りだったのが、慣れた職場で働き続けようという気持に変ってきた。凡庸で退屈で変らぬ日常に復帰するのが大事だと思えた。会社はなくなるかもしれず両親は亡くなるかもしれない。だが、非常時は何時やって来るか分からぬとしても、とりあえず平時である。普通の日常を普通に生きれば、それで良い。小分けの先生なりオリコン出し・シール出し等々として生きて働けば良い。そう思えた。
 ピアニストや作家や哲学者に成れずとも良い。倉庫内労働者で良いではないか。その自分を認め受け容れれば、問題は解決する……というような事は先週も考えたのであった。だが駄目であった。仕事には行けなかった。だから、今度も仕事に行けるかどうかは分からぬ。また同じ事の繰り返しになるやもしれぬ。だがいいではないか。働ければ金になるし、働けずとも直ちに死ぬ訳ではない。開き直れ、攝津! 生きろ、攝津! 攝津は自分で自分を鼓舞した。そうせずにはいられなかったからである。
 一週間、休んでみて、自分の駄目さが底の底迄分かった。だから諦めるべきなのである。何ものかに成ろうなどと思うな。単に生きろ。働け。攝津はそう自分に繰り返し言い聞かせた。〈了〉

二千十年二月二十五日木曜日完結


散文(批評随筆小説等) シコシコ Copyright 攝津正 2010-02-20 18:24:45
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