秘密荘厳大学文学部
済谷川蛍
三
玄関ホールで森野くんが友達数名と掲示板を見ていた。
私に気付いた森野くんは「こんにちわ」と挨拶した。私はただ頭を下げた。2人はもう他人同士の関係になっていた。森野くんが私の性質を理解したのだろう。人が人と関わり合うときに卑俗な一歩を踏み出すその勇気がない臆病な性格に。
「あの人と友達になるのはぜってー無理!」と、驚嘆と笑いを交えた調子で他の学生たちに流布してくれれば本望だ。
いつものように草食系の昼食をとっていると私の前の席に誰か座った。嫌だな…と感じ箸を止めた。
「秋山さん」
女性の声だった。ギョッとして顔をあげると果たして彼女は栂尾祥子(とがのおしょうこ)さんだった。誰からも愛される存在である彼女は、よっぽど私とは縁遠い存在だと思っていたのに…。
「な、なんですか」
「森野くんから聞きました。レポートを手伝ってあげたみたいですね」
「え、あ、まぁ…」
「秋山さんって優しいんですね。みんな親切な人だって言ってますよ」
「そうですか」
私は普段極端なツンデレなのでこういうときはデレデレになってしまいどうしようもない。
「ヘッセが好きだって聞きました」
「そうですね」
「講義で前園先生とヘッセのことについて語り合ってましたね」
「そうですね」
「私もヘッセが好きなんです。お話しませんか」
「…えっ!?」
「私、中学生のときにヘッセと出逢ったんですけど、今まで周りにヘッセについて語れる人がいなくって。レポートにしようかなって思ってるんですけど」
私はこのテの中学や高校の頃に読んでファンになったという読者を信用しないタイプの人間だった。この世の果ての目も眩むようなリアリティに心底震えた経験があるのか、と問いたかった。私はどっから見ても将来有望そうな小娘に言い放った。
「おっ、お願いします!」
談話室こと自習室で――。
作務衣姿の学生がイスを並べてベッドを作って寝ている。PSPで遊んでいる学生もいた。私たちはなるべく人の少ない場所を選んで座った。
「栂尾さんはヘッセの何の作品が好きですか?」
「そうですねー、ベタですけど、『車輪の下』が好きです。あと『郷愁』も」
「僕も『郷愁』読んだことありますよ」
「ほんとですか!?」
「全然覚えてないけど」
彼女はあどけなく笑った。人を笑わすなんて随分ひさしぶりであった。
「秋山さんは何が好きですか?」
「『車輪の下に』と、『デーミアン』かな」
「あ、『デーミアン』読んだことあります! ものすごく難しい作品ですよね」
あえて彼女に説明しなかったが、よく難解といわれるヘッセの作品は、神秘主義とマイノリティの文学であるから一般的な常識や思考、社会性のある状態ですくすくと育っている者には共感出来る部分が少ないのだ。『車輪の下』だって多くの理解した気になっている読者は詰め込み教育の部分だけであろう。ヘッセの文章の、『車輪の下』の真髄はそこではない。
それにしても女の子と話したのは何十年ぶりなので喉が渇いてきた。それに物凄く照れて暑い。私はゴアテックスジャケットを脱いでジャージ姿になった。
「栂尾さんは誰かに似てますね」
例のセオリー通りの質問が少し唐突だったようで彼女はえ?って顔をした。
「え? 誰に似てますか」
「うーん…堀北真希に似てる」
彼女は(最近髪を伸ばしてパーマをかけた)堀北真希に似ていた。
「うれしー! ありがとうございます」
「秋山さんも誰かに似てる気がしますね」
「えっ、誰?」
何か珍妙な有名人の名前を言われそうで焦った。
「なんだか私の小学生時代に好きだった人に似てます」
私は思いっきり噴き出して笑った。唾が彼女の服にかかってしまい、彼女を拝むやら手をバタバタさせるやらで踊念仏を無我夢中で踊ってるようだった。これだから女は…!と思った。散々男を持ち上げてその気にさせるのだ。小学生のとき、というのが誤解させないボーダーラインのつもりだろうが、男はすぐその気になっちまう。
「コホン、『車輪の下』ならアパートにあるから話せるんだけど」
「あ、お願いします」
調子外れの校歌のチャイムが鳴り、彼女はあっけなく自習室から去って行った。私は何だか虚しさを感じた。
四
次の日、Y's for menの服を着て登校した。
2講時が終わって食堂へ行く。彼女がいるかどうかの確認はせず、粛々とおかずをトレイに並べ、お茶を注いで一番後ろの席へ座った。期待と不安を膨らませて喉が詰まったが彼女は来なかった。残念に思いながら立ちあがったとき、声がかかった。
「あの、秋山さん」
女の子だった。しかし栂尾さんではなく、別な女の子だ。
「栂尾さんが図書館に来てほしいそうです。レポートを手伝ってほしいと」
「そうですか」
彼女は自分の席に去って行った。その子の座った席には他にもたくさん女の子たちが座っていてちらちら私のほうを見た。私は油の切れたロボットのような動きでトレイを返しに行った。
大学図書館で―――。
栂尾さんはレポートを書いていた。『車輪の下』の文庫が見えたが、やはり私が持っている翻訳のものとは違うようだった。おそらく一番オーソドックスな高橋健二訳だろう。
私は自分から声をかけず、栂尾さんの机のそばに近づいた。
気配に気づいた彼女が驚いた感じで振り返った。
「あ、すみません。図書館まで来てもらって」
「いや、いいんです」
「秋山さん次授業ありますか?」
サンスクリット語初級の授業があった。
「いや、ないです」
「じゃあゆっくり話せますね」
他意はないのだろうがこういうセリフにいちいちときめき、心を揺り動かされるのだった。
「私、実は受験に失敗しちゃって…、一浪しているんです」
「そうですか」
「だからここの部分が、なんか…心に染みるんです」
彼女がさしたところは、優等生だった主人公ハンスが学校で落ちこぼれていくシーンだった。
ちょうど山鼠(やまねずみ)が蓄えた食物を食って生きているように、ハンスはこれまでに得た知識によってなおしばらく生命をつないでいた。それから苦しい欠乏が始まって、ときどき改めて勉強をやってみたが永続きせずまた効果もなく、それがとうてい望みのないことを知って、自分でも笑いたいほどだった。今はもう無駄に自分を苦しめることはよしてしまって、モーゼの書の次にはホーマーを、クセノフォンの次には代数を放棄し、教師の間で自分の評判がだんだん下落していって、優から良へ、良から可へ、ついには零へとさがって行くのを冷然とながめていた。
私たちはしばらく長い沈黙を保っていたが、やがてどこからか悲しみが湧いてきた。そしてその悲しみは彼女のほうからやってきて、私の胸に流れ込んでいたのだった。
「秋山さん、ここの文章をどう思いますか?」
小説の中には優れた箇所とそうでもない箇所がある。彼女が細い指先で示した箇所は優れた箇所である。
「僕はここからヘッセの魂が伝わった」
彼女は今にも泣きそうな目をしていたが、なぜか気丈に笑った。私は思わず顔をそむけた。可笑しくもないのに笑った。嬉しかったのかもしれない。
これだけで彼女がヘッセのすべてを理解しているとは判断出来ないが、確かに彼女は多くの読者が指し示すことのない本来のヘッセを私に指摘してみせた。
彼女は少し泣いているようだった。黒目が潤んで妖精のような顔になった。
「きみ、がんばりたまえよ」
特に意味もなくハンスの友人ヘルマン・ハイルナーの口調を真似した。
「は、はい」
私は彼女の背中をポンと叩いた。女性に触れるのは数十年ぶりだった。私のアドバイスがなくても彼女は実体験だけでレポートを書き上げることが出来るだろう。時計を見た。まだ3講時には間に合う。私は「じゃ…」と言って出口へ向かって歩いた。
「あ、ありがとうございました」
私は振り返らず、片手を軽く振ってドアを閉めた。
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