方舟のなか、壁にもたれて僕は
汐見ハル
晩餐など絶えて久しい
誰もが膝を抱えてうずくまった夜に僕は
屋根の隙間から星を見あげてた
あかい、涙みたいにうるんだ一粒に
名前をつけようとしたとき
父さんが僕の髪をくしゃりとなぜて
後ろから覆いかぶさるようにして
口を
ふさごうとするのだとわかったから
霜だらけの指にかみついた
鉄の味
少し苦くて
あたたかいもの
腕の力がゆるんで
父さんが崩れた
お前は神様に選ばれなかったので
この方舟には乗せられない
ゆるしておくれ、と
ぐずぐずに崩れながら父さんは僕の肩を押した
視線だけで振り返ると、母さんが
きょうだい達にキスを配ってたけど
筋ばった腕に余るのか
抱えきれずにぽろぽろと落ちていった
転がりながら口が消えてく弟妹を
一番上の兄さんが網でからめる
僕は走り出す
捨てられたのでないと思うために
ごめんなさい
父さんの中指の骨を飲み込んで
帰れない方舟のゆくえを
追いかけたことなど一度もないのです
降ろされた砂の海のうえで
水の匂い待って身体投げ出していた
暮れてゆくせかいを見届ける日々がはじまる
焼け焦げた樹木の残骸が
月に、吠える夜に
神様じゃない、神様じゃないんだ
奪われなかった口で呟いてみたけど
はいずる人々のうめき声と風に紛れ
鳴る、びょうびょうという確かさに埋もれ
飢えた腹を
風が通る
からからと、骨のかけらが鳴る
そして
闇の向こうに佇む
一頭の駱駝が
濁った水のいろした瞳で
僕をとらえた
眠たい瞳で、緩慢な、けれど
促す仕草でもって
駱駝はくい、と顎を動かした
弾かれたように立ち上がり
からっぽの腹を抱えて僕は
砂に潜る足を引きずりながら
ちいさな方舟へと導かれた
駱駝は方舟の中央で
長い足を折りたたむ
少し距離を置いて
炎にくべられた薪のように
横たわるいくつもの体躯がならぶ
眠っているのもあれば
わずかに目蓋をもちあげて
拒むでも受け容れるでもない
まなざしが僕を縛る
後ろ手に方舟の扉をとざしたら
軋む、雷鳴
泡音
耳障りに引っ掻く
叩く
揺れる方舟
泡音、乱れて
絶える
それらはすべて向う側の出来事だ、と
夢うつつに聞きながら
そこに混じる悲鳴のような喘ぎのような何かは
壁一枚隔てただけの運命だ
謝りたいという衝動にかられて
めをとじる
そして
わからない駱駝の言葉に
耳をすます
しめった草のにおい
生暖かい鼻先が
入れ替わりにやって来ては
僕の皮膚を舐める
融ける
それを駱駝は吸い、また眠る
融け出した僕の皮膚は
やがて乾いて鋼となった
繰り返し融かされて
何度でも鋼になった
駱駝の舌は砂利の感触だ
轟音
途切れる 意識
そしてまた何度でもめざめる
動けずにいて
抱え続けたままの融けない欠片とか
鼓動の在り処とか
いつまでも鋼にならないまま残り続けて
だから
待っているみたいだとおもう
あかい星に名前をつけようとしていた僕の
なまえ、を
僕が忘れてしまう前に
やがて凪いだ世界で
いくつもの方舟がめぐりあうことだろう
それなのに駱駝たちは眠り続けて
とざされたまま
未だ陸のみえない世界で
方舟は水面をすべりながら
月を 渡ってゆく
そうして僕は朽ちることをゆるされず
融かされて 乾いて
少しずつちいさくなりながら
方舟のなか、壁にもたれて
いつのまにかできていた天井の裂け目から
差し込む蜜色のひかりを
あたたかく感じながら
うたう
擦り切れる一歩手前の
つぎはぎだらけの歌
うたう