「思い至らなさ」と想像力
はらだよしひろ

最近、「思い至らなさ」について考えている。

良く、分かり合う、とか、理解しあう、なんて言うけど、育った環境が違うもの同士がいったい何処から何処まで分かり合ったり、理解しあえるというのだろう。はなはだ疑問。

 父の名言、「俺はおまえの事をわかろうとは思わない。」一見酷い言葉に思えるけど、これ、実に大切な事だと思う。

 父と僕の間には決定的な断層がある。父には朝鮮人の血が流れていなくて、僕には朝鮮人の血が流れている。
 と同時に僕と母との間にも決定的な断層がある。母には日本人の血が流れていない。
 つまり、僕たち家族は断層の間に身を浸しながら共に生活をしている。断層があるが故に身を切るような思いをする事もある。でも仲は良い。「思い至らなさ」を認識しているから。
 「思い至らなさ」があるから常に人は想像力を駆使するのだと思う。人と人は「理解しあえる」「分かり合える」と思って、それが出来ない状況になると、想像する事を止めて嫌悪感を抱いたり、偏見・誤解をしたりする。
 「理解しあえる」「分かり合える」という心情には必ず、常識や先入観が付き纏っている。常識や先入観の範疇で物事を捉えられない時、思考を止めて感情が先走る。そこでは何も生み出されない。なぜなら想像する努力がなされないから。

 父の名言、「俺はおまえの事をわかろうとは思わない。」 実はこの言葉、何が「思い至れない」のかはっきりと認識した上での発言である。そして、それでも「思い至れない」部分を想像する努力を父は続けている。普段の生活でもそれは感じる。

 僕は容易に「理解しあえた」「分かり合えた」「向き合う事ができた」と言う人を信用できない。むしろ、「理解しあう」ことも「分かり合う」ことも「向き合う」ことも出来ないことが分かっていても、想像力を駆使する人間の方が信頼できる。
 それに簡単に「理解しあえた」「分かり合えた」「向き合う事ができた」と言うことは想像力の放棄でもある。想像力を放棄すれば思考が固定化し、その範疇に収まらない考えや行動をする人間を排除しようとする。

 人間同士は本来、互いに思い至れない部分があるから素晴らしい関係を作れると思う。なのにとにかく「理解すること」「分かり合うこと」「向き合うこと」が優先されて、結果的に想像力を失っているふしがあると思う。


散文(批評随筆小説等) 「思い至らなさ」と想像力 Copyright はらだよしひろ 2004-09-25 11:41:47
notebook Home 戻る