労働
攝津正

 攝津はその日も浦安の倉庫で肉体労働していた。
 攝津は自らの仕事を気に入っていた。厭々ながら、金銭の為に始めた仕事ではあったが、慣れるとともに自分の力量、技術を発揮する喜びを知った。低賃金が悩みの種だった。この仕事で生活できるだけの収入を得られれば! 
 攝津は幼い頃からの育ちの歪みが原因で精神を病んでいた。診断は社会不安障害だったが、要するに社会適応が出来ないということだった。適応出来ないというのは、労働と性において顕著に表れた。攝津は同世代の他の若者と同じように働けなかったし、恋愛や性交も出来なかった。コミュニケーション=交換において攝津は躓いた。攝津はそれを「自分苦」と呼んでいた。かつての哲学青年が「世界苦」を苦しんだとすれば、自分は自分一個の苦しみを生きている、と考えたのである。
 自分苦を生きる攝津も職場に入ればone and onlyではあり得なかった。職場での攝津は没個性的であり、誰とでも同じな、快活な中年男性だった。攝津は三十四歳であり、今年の五月には三十五歳になる。攝津は年齢のことをひどく気にしていた。もう若くはないのだ、といつも自分自身に言い聞かせるように呟いていた。攝津はもう何度も、不注意からの事故で死に掛けていた。だが生き延びたのは偶然だ。攝津は偶然に感謝するとともに、残された時間でできることをしようと考えた。出来ることというのはピアノを弾くことと文章を書くことだ。また、音楽を聴き文章を読むことだ。それをしようと思った。そして現にやっている。攝津は単純に幸福な幸福を生きていた。

 攝津は漠然と芸術家に憧れる型の人間だった。所謂ワナビーというやつである。攝津に近付くとすれっからし特有の厭な臭いがした。勿論これは、精神的な臭気である。世の中で芸術家になりたいがなれぬ者ほど惨めな存在はあるまい。攝津は、ジャズピアニストになりたいという夢を、三十四歳になってもまだ追っていた。自分で自分を馬鹿だと思えたが、夢追いは止められなかった。そもそも攝津が労働に入るきっかけは、クレジットカード(複数)でジャズのCDを買い漁り、その借金が数百万円に上ったからだった。その時攝津は無職だった。無職の自分が何故、返すあてもない金を借り続けたのか、ローン地獄から抜けつつある今はもう攝津自身にも分からぬ。ただ確かなのは、攝津が、この一枚を買えば音楽家になれるかも……といった甘い考えを持っていたということである。無論、何枚CDを買おうと、音楽家になどなれるものではない。そのことは、攝津自身承知していた。だが攝津は、高田馬場のMUTOや渋谷のタワーレコード、 HMV、或いはAMAZONなどでCDを買い漁るのを止められなかった。
 愈々追い詰められた攝津は或る日、日雇い派遣で働いた。食品工場だったが、過酷な職場であった。二日目、攝津は転倒し、右肩骨折の重傷を負った。しかし!である。攝津は、折れた肩をそのままにしてMUTOに直行し、約十万円も散財したのである。何故そんなことをしたのか、攝津自身にも分からぬ。ビョーキだったのだとしか説明の仕様がない。
 労災で得たお金や、日雇い派遣の会社と労働組合を通じて交渉して手に入れた和解金などは全て、借金返済に消えた。それでも攝津の借金は膨大に残っていた。困り果てた攝津が組合の仲間に相談して紹介して貰ったのが、今通っている会社である。
 その組合の仲間は、ニート支援のNPOにも参加していたが、会社は、ニート自立支援という名目で労働者を集めてもいたのである。だから敷居は低かった。攝津自身、ニートと言えないこともなかった。後に攝津のブログにコメントしたこりんという人物が、我々は支援する側ではない、支援される側だと書いたことに、攝津は苦々しさを覚えたが、その理屈の正当性を認めざるを得なかった。攝津自身が人助けなど出来る器ではなかった。攝津は自分で自分を助けるだけで精一杯、それすら覚束ないといった有様で生きていた。みっともなかった。だが、そのみっともなさに開き直ってもいた。

 攝津はそれ迄働いたことが全くないわけではなかった。しかし、二回働いたいずれも、一日四時間のパートタイマーであり、しかも二年しか続かなかった。攝津は月収が十万円を越えたことが無かった。しかし、借金返済と住宅ローン返済の為、纏まったお金が必要になり、一日七時間から八時間の労働を選んだのである。
 今の倉庫で肉体労働を始めてから攝津は転向し、一切の運動団体から脱会した。攝津には、余裕が無くなっていたのである。後に攝津が、リプレーザという雑誌に寄稿した転向論で述べているように、生活が苦しいので他者を顧慮する余裕が無い、そういう状態に陥っていたのである。毎日、肉体労働し、帰宅するのみで精一杯だった。攝津の世界は狭くなったが、生活の為にはやむを得ぬことと攝津は割り切って考えた。
 攝津を支えたのは二人の友人だった。一人は前田さんと言い、十年来攝津を支え続けている。攝津は、柄谷行人が創設したNAMというグループに所属していたが、そこで紛争が起こった。そして攝津は随分乱暴な振る舞いをしたのだが、それで多くの友人はそれで離れていったのだが、前田さんだけはそんな攝津を見捨てず逆に注目してくれたのだった。前田さんは、攝津の音楽や文章を最大級の言葉で褒めてくれるが、攝津には、自分の何処が良いのかさっぱり分からない。褒め殺しのようにも感じる。だが、評価してくれる人が世界にただ一人でもいるのは嬉しい。前田さんは樹木医という変わった職業をしている人だが、工場に勤務したりした経験もあり、攝津の仕事の悩みにも親切丁寧に助言をくれた。
 もう一人はiwaさんという人で、一年ほど前にいーぐる後藤さんの掲示板で攝津に注目してくれた人である。iwaさんはディープなジャズファンで、攝津の即興演奏を褒めてくれ、毎日ジャズについてチャットする。iwaさんとの交際によって攝津は初めて、ジャズについて深く語れる友を持った。ちなみに前田さんはビートルズマニアだった。前田さんは自分で作編曲もし、ギターを弾く。iwaさんはトランペットを習い始めたばかりである。
 無職の頃攝津はインターネットラジオを始め、最初のうちは毎日放送しており、或る時期は盛況だった。リスナーが十人を超える日もあった。だが、攝津が賃労働に忙殺され、放送が月に数度になると、多くのリスナーは去っていった。攝津が喧嘩して絶交してしまった人もいた。ご隠居さんといい、攝津にノートパソコンを贈ってくれるほど親しかったのだが、些細なことで喧嘩別れしてしまい、復縁の兆しは無い。Yousukeさんは攝津の政治的転向が気に障ったのだろうか、ラジオはもう聴きに来ない。岡崎さんは、仕事が多忙らしい。そういうわけで、リスナーは減り、今は放送しても、少ない時で二人、多い時でも五人である。しかし攝津は、インターネットラジオを楽しみとして続けている。
 前田さんは攝津ラジオをサロンと言い、NAMのMLより進化していた、と語ったが、音声でのコミュニケーションなのだからそれはそうだろう。マルチメディアでNAMをもう一度やったら面白くなるかもしれぬ、とふと攝津は思った。メール、メール、メールのやりとりに疲れて退会した会員は山程居た。だったら、もう少し寛げる、顔の見えるコミュニケーションの方法を採用したら、NAMも続いたのではなかろうか。例えば、Skypeの会議通話などはどうか。攝津は、NAMは死んだ、と口汚く罵りつつも、NAMへの郷愁は棄てていない、棄てられないのだった。攝津はNAMで多くの友を得、解散と共に失った。

 攝津はフリーター労組という労働組合に入っていた。入った動機は安里健=徳田ミゲルというプロレタリア詩人が創設者だったのだが、彼と友人だったから、そしてフリーターになったからだった。フリーター労組に入った頃は攝津は、個別指導塾で事務の仕事をしていた。事務員といっても要するに雑用係だった。どういうわけかパソコンの専門家に祭り上げられ、攝津にそんな知識などないのにその塾のホームページを作成させられたりした。上司は民主党支持でネオリベな人だった。モラロジーというのに熱中していた。攝津は仕事としてモラロジーのテキストなどを入力させられることがあったが、その内容が反動的なのを厭う気持が強かった。
 攝津は、個別指導塾で二年働いたが、上司から、攝津さんもいつ迄もフリーターじゃ駄目でしょう、正社員の職を探しなさいと言われ解雇された。実質整理解雇だったが、当時は闘うことなど思いもよらなかった。馬鹿正直に、正社員の面接を受け続けては落ち続けた。馬鹿だったと思う。現実知らずだったと思う。
 そういえば攝津は、個別指導塾に在籍していた頃、地方公務員の年齢制限が緩和され、地方公務員の試験を受けたことがあった。AMAZONで問題集を取り寄せ勉強したが、全く分からなかった。試験に臨んだが、物凄い受験者数、攝津は全問題中、哲学史に触れた一問しか分からなかった。駄目だろうと思ったが、やはり一次で落ちた。攝津は世間知らずだったが、公務員受験の予備校にも行かず、試験に独学で臨むのは馬鹿げていた。競争者らは公務員になろうと必死なのである。気紛れで試験を受けてみる気になっただけの攝津が敵う筈も無かった。

 攝津は個別指導塾を辞める時にあかねスタッフのペペ長谷川や真哲から、争議に出来ると忠告されていたのだった。だが、攝津は争う気になれなかった。折角労働組合に入っているのに、勿体無い話だったが、形の上では攝津が自主退職するということになっていたので、それ以上争う気持になれなかったのである。
 攝津はフリーター労組で副執行委員長や執行委員を務めたが、一年程前に辞めてしまった。辞めた経緯については書かない・書けない。組織内部の事情だからである。だが、最近攝津は組合に復帰した。しかし、人も増え事情も変わり、浦島太郎状態である。攝津は無職の頃と違って、労働が忙しく争議にもほとんど参加できぬ。組合に復帰した意味があるのか、と自問することも多い。

 攝津は大晦日、元旦、二日と仕事に出たのに、四日五日と二日間寝込んでしまった。四日の月曜日は、僅か一時間弱でダウンして早退、五日の火曜日は、北海道の精神科医デス見沢から出社しろと忠告されていたのに欠勤してしまった。理由は心因反応、平たく言うとヒステリーであった。というのは、攝津は資格(簿記二級と日商パソコン検定三級)を取得して転職するつもりだったのに、デス見沢と彼の掲示板の横の人達から、資格は取ってもいいが「転職の道具」としては期待しないほうが良いと忠告を受け、自分の希望が断たれたかのように感じたからである。今の出口の見えぬ生活から抜け出そうとユーキャンに申し込んだのに、徒労だったのかと、深い落胆に襲われ、動けなくなった。
 だが、よく考えてみるとそんなに落ち込む必要などなかったな、と快復した攝津は自省した。というのも、自宅の住宅ローンも後四ヶ月で終り、CDのローンも残り僅かである。ということは、四ヶ月我慢すれば、お金のことでがつがつせずとも今の月収で十分やっていける生活になる筈である。勿論、贅沢三昧はできまい。攝津は、七十四歳になる両親の為に貯蓄せねばならぬと考えていた。老いた両親は、息子に迷惑は掛けぬと常々口にするが、人生分からぬものである。迷惑は掛けたくない、綺麗に死にたい、とは誰しも思うが、しかしいつ倒れるか、病むか、事故に遭うか、障害を負うか分からぬ。年配ともなれば尚更である。攝津程度の収入では幾ら背伸びしても老人ホームへ両親を入れる金は出来そうにも無かった。だが、せめて病気なり怪我をした時の治療費位は貯金しておこうと攝津は思っていた。自分に出来るのはそれ位のことしかない、と思い定めてもいた。
 ともかく、どうあれ、生きているし、生きていける。そう攝津は考えた。今の仕事を続けても、やめて別の仕事(アルバイト)をするにしても、生きてはいける。そうして、生きてさえいければそれでよい、と考えた。
 攝津がデス見沢の助言を読んで寝込んでしまったのは、年齢からくるコンプレックスがあったからであった。攝津が、デス見沢や匿名の人の言うように資格を取得しても正社員での就職は難しいと判断したのは、幾ら資格があっても、三十四歳、三十五歳で未経験ではどこの企業も雇うまいと予測したからであった。よく世間では、三十五歳限界説というのが囁かれている。正社員での就職は三十五歳迄が限界だというものである。そして攝津は、丁度その三十五歳に差し掛かろうとしていた。資格を取るにしても半年や一年、二年は掛かる。三十五歳を過ぎてしまうではないか! それで攝津は自分の人生の可能性が閉ざされたと感じ、今の仕事も厭になって寝込んでしまったのである。だが、正社員でなくとも、フリーターのままでも、働けて生きていけるならばそれでよい、と攝津は考えを改めた。

 攝津は毎日欠かさずブログを書く。誰に読ませるでもない、金になる当てがあるでもない、単なる習慣である。だが攝津は、ブログを書くことこそ自分の天職だと考えていた。社会生活を送る上では、自分は仮面を被って進む。快活な好青年を演じざるを得ない。だが、インターネットでは、真実を記す。それが攝津の生活の二重の格率だった。だからブログでは性のことも、同性愛のことも隠さずに書いた。
 だが攝津は、正直に言うと、自分が同性愛者だと信じていたわけではない。同性と性交している時ですら、自分が同性愛者だとは思えぬ。だから攝津は、「自称」が性別なり性的指向を決めるというひびのまことの説に懐疑的である。攝津は「自称」同性愛者だが、実際には曖昧な性欲しか持ってはいないからである。
 例えば美しいと感じる娘なり女性に会うと、攝津は単純に恋してしまう。しかし、彼女に彼氏なりパートナーが居ると知ると簡単に諦める。攝津が経験した唯一の恋愛は、大学一年生の頃のもので、相手は女性だった。男性経験は、ただ性しかなかった。攝津はそれに嫌悪を感じた。だが、どうにもできなかった。そのうちに精神病になり、精神科の薬を処方されると、性欲自体が消失した。攝津はますます自分の性のありよう、その実態が分からなくなった。
 自分は同性愛者なのか? 異性愛者なのか? バイセクシュアルなのか? アセクシュアルなのか? そのいずれでもないのか? ただのぼろ屑? 攝津には自分で自分が理解出来なかった。別の言い方をすれば、攝津には自分自身に対する信仰が欠けていた。攝津は、自分はこれこれである、と安寧を持って信ずる事がどうしても出来なかったのである。

 攝津は働くようになってから、マイノリティが現代日本では解放されているなどというのは嘘だと思うようになった。新宿二丁目で幾ら性を謳歌できたとしても、職場で家庭でカミングアウト出来ている人が何人いる? ホモねた、レズねたの冗談を聞かされない職場があるか? 幾ら屈辱に耐えればいい?
 日常の生活なり労働の現場では、日本的世間でいう常識と平均的人間が支配している。支配しているという自覚も無いままに。外国人差別や軍隊讃美の言説に耐えねばならぬ場面も多い。力関係上、こちらが真正面から反論できぬ位置にいるからだ。そこで黙ってしまうのは転向か? 敢えて異論を唱えねばならぬのか?
 自分独りの時に幾らラディカルになれても、生活の場が抑圧されているのでは駄目だ、と攝津は考えた。職場で家庭で攝津の政治と性は抑圧されていたし、現に抑圧されている。どうすればいい、と攝津は独り呟いた。

 攝津の空元気は二日と続かなかった。今日は又、労働が辛く厭わしいものに思え、明日もそれが続くと思うと更に憂鬱になった。攝津は、自分はやはり労働が「好き」ではないのだ、と考えた。労働が好きで働いている人など殆ど居ないという事実はよく承知しているが、それはともかくとして、金銭上の必要に迫られて労働を強制されているというのは不幸な事態だと思える。かといってどうにもしようがない。攝津は無職時代、カンパを募ってみたこともあったが、前田さんが千円程振り込んでくれるくらいが関の山であった。
 ところで攝津は、会社から、仕事の話を具体的にブログ等に書くことを禁じられている。時給も幾らと正確な事を書いてはならぬと言う。だから攝津は、現在の労働について、抽象的主観的にしか記せぬ。辛かっただとか、どうだとか。会社で出会う人達についても書けぬ。斯様に制約の多い「長編小説『労働』」、技術の拙さは目に余るし、技術以前の問題でとにかく駄目という気がしてならぬ。攝津は自分で自分の馬鹿さ加減や文才の無さに絶望している。とりあえず、『労働』は習作としておく事で、自分の下らぬプライドを守ろうかと思案しているが、習作、試作としようとどうしようと、駄目な物は駄目、詰まらぬ物は詰まらぬとしか言い様が無いであろう。攝津は批評や評論から遠ざかろうとしていた。小説を読み、小説を書こうとしていた。批評文を読んだり書いたりしたいのではなかった。攝津は柄谷行人の影から遠ざかろうと必死だった。先日川端康成を読んだのも、柄谷行人が川端を罵倒していたからであった。柄谷行人が嫌うものを読む事で、柄谷行人の影響圏から脱する事が出来るのではないかと淡い期待を抱いたのである。攝津は、漱石そのものを読むより先に柄谷行人の批評を読み、それから漱石を読んだから、どうしても偏見なり先入見が入っている。出来るだけ、偏見や先入見を排除して漱石なり他の作家なりを読みたいと攝津は願っていた。再読、再々読は、作品その物に迫る為の営為である。実際、三島由紀夫の『豊穣の海』再読は、攝津に大いなる満足と感動と発見を齎した。同様に、他の作家も読んでいきたい。
 攝津は書く為に読み読む為に書くのである。攝津は、水村美苗の『日本語が亡びる時』に影響されたわけではないが、近現代の日本語で書いた作家のテキストにじかに触れる事で、自分の日本語を磨こうとしていた。膨大な読書が、文体を変える事が出来るのかどうかは分からぬ。だが、やってみる他無いのだ、と攝津は考えていた。
 ところで、iwaさんが攝津の速筆ぶりに感嘆していたが、攝津が自慢できるのは──それも大した自慢ではないのだが──速読と速筆位のものである。攝津は、ファーストテイクが一番いいというのはモンクの考え、文章におけるモンク流ですね、と返した。小説家でいえばジャック・ケルアックの自然発生的散文である。iwaさんは編集者らしく推敲に推敲を重ねた文章を書くのだが、彼は推敲を重ねる度に劣化するように思えるという。攝津には良い文章だと思えたのだが。iwaさんは攝津より一回り程年上である。攝津の、相対的な若さ、そこからくる無鉄砲となんでもやれ精神みたいなものに嫉妬したのだろうかと勘繰ってみる。人間歳を重ね賢くなると攝津のように馬鹿は出来ぬものである。人間、馬鹿が出来るうちが華ではないか、などと攝津は考えて見たりもする。だが、馬鹿は所詮、馬鹿でしかないのだ。

 攝津はその日、疲れていた。七時間弱の労働でしかないのに、草臥れてしまう。これでは、十二時間、十三時間超働かされる正社員になど到底なれる筈も無い。攝津は帰るかもう一時間働くか会社から問われ、帰る方を選択したのである。常に楽な方、楽な方に行くのも惰民故か。
 帰りの電車で、JR線の切符を紛失した。財布に入れたはずなのに、どこをどう探しても出てこない。攝津は安部公房の『壁』を読み始めたところだったが、小説が超現実だからといって自分の生活まで超現実にならずとも良いのに、と愚痴た。津田沼駅で、切符をなくしたと申し出ると、追加で二百十円支払わせられた。攝津は悔しくて泣きそうになった。そんな瑣末な事で泣きそうになる自分が厭になった。
 職場で使えない奴と看做されているという被害妄想、否現実?が攝津を精神的に追い詰め苦しめる。確かに攝津は、何をやらせてものろい。小分け、ピック、オリコン出し、何をやらせても鈍である。だから管理者が、攝津の事を無能だと思ってもやむを得ぬところだった。攝津が幾ら自分の美点を探し回っても、そんな美点などは労働の場では通用せぬのだ。労働の場では能率と正確さが全てである。後は余分な物だ。攝津の所謂「教養」など何の役にも立たぬ。むしろ邪魔。

 攝津は大学時代、いやもっと前から、「一般教養」を身に付けようとしていたのだった。早稲田大学で文学研究会というサークルに入ったが、何を読みたいかと先輩から問われ、哲学史を学びたいと答えた。攝津はハイデガーなりを特権化するのめり込み方は避けようと考えていた。それ迄好んでいたのはフーコーやドゥルーズ=ガタリなど所謂「ニューアカ」であったが、大学では地道に哲学史をやろうと思っていた。実際、岩波文庫等を読み耽り、一応、西洋哲学の代表的な著作には概ね目を通した。しかし、そんな事が何になったろう。
 攝津は文学研究会で、『起きたことと起きなかったこと』という拙い習作を書いた。当時付き合っていた。花子ちゃんとの出会いと別れを書いたものであった。文学研究会には、小説の巧い先輩が居たが、一人は大木さんと言い今は徳田秋声記念館に勤務している。もう一人は山本さんと言い今は『ユリイカ』の編集長をやっている。神沢さん夫妻との出会いも、文学研究会でであった。
 文学研究会は、毎年早稲田祭に柄谷行人を招いて講演会を催していた。攝津は、柄谷行人の著作に傾倒していた。ところで前田さんが、柄谷行人が次のように述べていると教えてくれた。《厳密に定義すれば、私小説とは、作品外の文脈に依存しなければ成立しない小説を指します。》(『倫理21』柄谷行人、第一章、平凡社) そして私小説とは否定すべきものに過ぎない、と。その意味でこの長編小説『労働』は私小説だ、と攝津は前田さんの指摘を受けて考えた。だがそれで構わぬと思った。攝津は自分の転向とは漱石の言う自己本位、吉本隆明の言う自立、デス見沢の言う開き直りなのだと考えていた。攝津は我欲を罪悪視する見方にどうしても賛同出来なかった。攝津は昔も今も、カント主義者であるより功利主義者だった。快楽計算。

 その日攝津は休日だったので、ユーキャンの通信講座の簿記三級のテキストを読んでみた。難しい。分からない。つくづく向いていないのだ、と思う。だけれども、申し込んでしまった。お金は払わなければならない。学習をやり遂げるより他あるまい。攝津はまた憂鬱になった。
 攝津は津軽三味線をやっていたが、一日八時間の労働を始めてから疲労のため辞めていた。もう半年程も楽器を手にしていない。今の仕事を続けながら三味線を弾くのは無理だ、と攝津は思っていた。今の仕事をずっと続けるならば、三味線自体を辞めねばならぬ事になる。練習時間が取れぬ。月謝が払えぬ。これまた攝津を憂鬱にさせた。生の豊かさがまた一つ自分から奪われる! 津軽三味線の演奏は自分にとってかけがえの無い営為であったのに、それが出来なくなる! その代わり、簿記だのパソコン検定だのの勉強をしなければならぬ! 攝津は泣きたかった。

 攝津は八時間弱働いて帰宅した。電車の中で安部公房の『壁』を開いてみるが、よく分からぬ。本当に夢の世界のような文章である。
 攝津は京都に住む杉原さんという人と連絡を取ろうとしていた。杉原さんはNAMの三代目の事務局長で、NAMの為に献身した人である。前田さんと共に資本論を読む会を作ろうという事になり、杉原さんにアドバイザーとして入って貰いたい、というのが攝津の言い分であった。杉原さんはマルクスに詳しい人だったので。攝津は八方手を尽くしたが杉原さんの連絡先は遂に分からなかった。これも運命、と諦めた。
 攝津は中国の広州で大学教員として働いている倉数さんとたまにチャットする。倉数さんは文学研究者である。攝津は素人だが、倉数さんの知識に圧倒されつつ、いろいろ学ぶものも多い。

 攝津は七時間弱働いて、十七時上がりで帰宅した。攝津(これを僕とか私等と置き換えても一向に構わぬ)は、昨日杉原さんや倉数さんの事を書いたが、彼らが小説『労働』で中心的な役割を果たす筈が無いのだから、自分の書いたのは余計な事だったと反省した。書く事が何も無かったので、つい身の周りの物事に言及してしまう。想像力がゼロの攝津は、自分自身に苦笑した。
 柄谷行人の言う自立した個人とは、柄谷流に捉え返された労働者=プロレタリアートの謂いであった。つまり、マルクスの言う二重の意味で自由な存在。生産手段から自由である=遊離していると共に、精神的に自由であるような存在。柄谷行人は、サラリーマンにそれの実現を見たのだ。労働奴隷と言われていたような存在は、柄谷行人によれば、「ルンペン・プロレタリアート」であった。そしてルンペン・プロレタリアートではなくプロレタリアート中心の社会運動を創出しなければならぬと彼は考え、NAMを立ち上げたのだった。しかし社会の現実は孤独な思想家の営為を無限に超えていくものである。日本社会で生じた深い変容は、確かにホワイトカラーの一部を「知識(知的)労働者」にしたが、多くの者を「フリーター」にした。つまり、ジョブ型の働き方で、ブルーカラーで低賃金で単純労働・肉体労働するしかないような存在に。攝津自身が、そのような者であった。攝津の時給が千円に達した時は生れてから今まで一度も無かった。攝津は千円以下の時給で、自分の時間を切り売りしていた。
 NAMがうまくいかなかったのは単純に、起業が出来る者が会員に居なかったからだと攝津は考えていた。仕事が無いなら起業すればいい、言うのは簡単である。しかしこの高度な資本主義社会で実際に起業し、成功させるのは、協同組合型であろうとそうでなかろうと、単に難しい。経営者には卓越した能力が求められるし、遭遇する困難も大きいであろう。企業を起業したり経営したりする能力が稀少だから、NAMは失敗したのだ、と攝津は考えた。また、協同組合主義の左翼の歴史の検討が不十分だとも思えた。協同組合に資本主義からの出口を見たのはNAMが最初でも最後でもない。先人に学ばすして、どうして社会変革などが出来ようか。
 また、柄谷行人個人崇拝も癌だった。最良のNAM会員も、攝津のような最悪のNAM会員も柄谷行人に病的に転移していた。だからNAM終末のあの滑稽で悲惨な出来事が生じた! 攝津にせよ、幾多の総括なるものを経ても、柄谷行人への幻想は完全には消えていない。柄谷行人とNAMの理論と実践が誤りであった、と理性では考えていても、柄谷行人が夢に出てくるのである。攝津は意識はともかく無意識まで規制することは出来ぬ、と諦念を抱いていた。
 柄谷行人は、全共闘の後大量の「青春を返せ」的小説を読まされたが下らなかった、青春を返せ問題を解消するために実働に地域貨幣を支払う事にした、と NAM原理に書いていたが、攝津の場合、青春を返せとは思わなかったが、NAM解散後、自分が急激に老いた、というか、年齢を意識せざるを得なくなったのを実感していた。三十四歳、もうじき三十五歳になる。もう若くはない、というのが攝津の口癖になった。
 冷静に考えると、NAMの発想の多くが短絡的で幼児じみたものに思えた。運動に打ち込んだのが間違いだったという後悔は、地域貨幣を受け取ろうと変わらぬであろうし、不登校の子供を階級闘争していると評価したところで戯画に過ぎまい。実に馬鹿げた事だった、と攝津は思った。
 NAM原理の本が出た時に、朝日新聞の書評欄に取り上げられ、パロディなのか、と書かれていた事に、当時既にNAM会員であった攝津は、自分らは真剣なのにパロディとは!と憤ったが、これは憤るほうが間違いであった。冗談と思われても仕方が無い部分が確かにNAMにはあった。いずみちゃんはNAMを、柄谷行人のマスターベーションと言っていたが、柄谷行人のみならずNAM会員全員の自慰であったのだと攝津は考えた。各人が、勝手な妄想を抱いて入会し、結局何も出来ぬまま自壊した。ただそれだけであった。馬鹿が集まって馬鹿やらかした、それだけの話だった。善意は何の救いにもならなかった。善意は無力だった。王寺さんや柳原さんや大和田さんを見よ!
 攝津は、転向した。漱石的意味で自己本位になり、吉本的意味で自立した。豚でもあるし、自立豚というのも悪くない、と攝津は独り笑った。攝津は、アソシエーションなるものは不可能であると考えるようになった。この曖昧な用語が労働者生産協同組合を指すとすれば、企業家(起業家)精神を欠く故に不可能であり、連帯を指すならば、攝津個人の事情、つまり喧嘩上等の狂犬であるという事情によって不可能だった。西脇さんが最近、ブログ上で読者とアソシエーションしたい、と述べたが、攝津はそれは不可能だと思った。攝津は、西脇さんはプルードン的であり、自分はシュティルナー的だ、と思った。攝津には、自分自身が、ただ一人自分だけが問題なのだった。攝津には、自分は我儘であり、我儘であるより他ありようがない存在なのだと思えた。

 攝津はその日、佐々木病院という精神病院の診察日で、T先生という若い医師の診察を受けた。攝津が前田さんに印刷して貰った精神科メモと『労働』草稿を手渡し、仕事で悩んでいる旨訴えると、ソーシャルワーカーと面談してみては、と言われ会ってみた。
 ワーカーさんは中年のおじさんだった。名前失念。三十分以上話したと思うが、不毛な対話だった。簿記やパソコンの資格を取得しても、事務職は希望者が多いので経験者から採用する傾向にある、との事。予想はしていたが、当然の如く厳しい現実。厳し過ぎる現実。攝津は、今の会社で時給を少しでも上げ、いずれは正社員を目指したほうがいいのかもとも思ったが、それも茨の道だと思った。フォークリフト操縦の資格も取らないといけないし。
 ワーカーさんは自分が仕事を斡旋する事は出来ないという。精神病院のワーカーさんなんだからそれはそうなんだろうが、何といえばいいか不毛で虚しい感じがした。
 面談を終え自分で車を運転して帰宅し、途中アクセルとブレーキを踏み間違えたりもしたものの事故には至らず、無事帰宅出来たが、攝津は二度図書館に通い、その後ずっとユーキャンの簿記3級の勉強をしていた。テキストの一冊目『簿記の基礎』の第6章迄読了した。練習問題も添削問題も解いた。だが、第7章が難物であった。仕訳帳が作れない…。攝津はこの辺が今日は限界だろうと観念し、滅茶苦茶に汚部屋になっている自室の本を整理し、カント『純粋理性批判』とマルクス『資本論』及び関連書籍、それと『一人で学べる簿記入門』『小さな会社の総務と経理』『個人事業の始め方』を出してきて再読した。これはNAM 時代、蛭田さんらとやっていたCafe Sに関係していた頃に購入して読んだものだ。
 Cafe Sとは地域通貨カフェとして開業しようと蛭田さん、関本さん、田口くん、関口くん、攝津などで開いていたカフェである。そこで会計を最初関口くんがやっていたのだが、どういうわけか攝津に会計係をやってもらいたいと蛭田さん、田口くんから言われ、俄か勉強を始めたという次第。しかし、結局簿記は分からなかった。『一人で学べる簿記入門』一冊を読んでも簿記3級には受からないだろうなあ、と攝津は思った。大原簿記会計専門学校に通える身分でもない以上、ユーキャンにしたのはとりあえずは正解だったろう、と思った。だが、疑問点をすぐその場で解決できぬもどかしさが隔靴掻痒の感で、やはり対面して実務を学べる実際のリアル学校とは違うとも思った。簿記を本格的に学び始めてまだ一週間だが、攝津は先行きに不安を覚えていた。金突っ込んで結局資格取れなかったらどーすんの?と自分ツッコミを入れ、独り不安がっていた。攝津は数学、というより算数が嫌いだった。数字を見るだけで吐き気がした。そんな自分が、簿記会計を学ぶとは…。何か間違っていると思いつつ、しかし当面簿記を勉強するしかあるまいと思っている。資格取れようと取れまいと。転職できようとできまいと。

 ちなみにCafe Sは破綻し、蛭田さん個人経営のCafe dasになったが、関本さんはまだ関わっている。Cafe dasは古本屋としてとりあえずやっていけてはいるらしい。
 そういえば攝津は、蛭田さんとも絶交した。攝津が、Q-NAM総括に蛭田さんを実名で書いたのが、インターネットで検索され風評被害に遭っていると蛭田さんは主張していた。蛭田さんは、鎌田哲哉のNAM批判を支持していた攝津に、それが間違っているという意味の事を語ったが攝津は聞き入れなかった。だが攝津は、その後鎌田哲哉とも絶交した。理由は忘れたが、些細な事であった。
 攝津は誰とも仲良くやっていく事が出来ないのだった。その証拠にいずみちゃんともご隠居さんとも絶交してしまった。些細な事が許せず激昂してしまう。攝津はその自分の性格を自分で厭だと思った。それでいて自分を変えようとは少しも思わぬ我儘が攝津らしかった。

 攝津は蛭田さんとも鎌田さんともいずみちゃんともご隠居さんともさんだー杉山さんとも絶交した。いずれも些細な事柄が原因で。攝津は激昂し易い自己の癖について自省してみたりもした。だが、自分を変える事は無理だと思った。何歳になっても喧嘩上等の狂犬であるより他無いと観念した。
 そうは言っても攝津とて弱い人間であり、独りで生き抜く事など出来ぬ。単独者、唯一者として自己を貫徹する事など出来ぬ。攝津は或る日入浴しながら、嘘でもいいから自分の音楽を良いと言ってくれる人が世界に二人だけであれ必要だ、と独り考えたが、それは世間で言う承認欲求という物だろうか。突っ張っていても、誰かに認められたい、褒められたい心がまだあるのか。攝津は、悟りを開けぬ自己の弱さを自ら嘲った。
 攝津は表現者として、無給であれ生きていきたいと思ったが、お金はなくとも一種の名誉、誇り、肯定が必要だと思った。自分は自分を肯定してくれる誰かを必要としている。今はそれが前田さんでありiwaさんだ。自分は彼らに本当に依存している、と攝津は反省した。
 人はパンのみにて生きるに非ずと言うが、精神的安寧も又必要であり、誰かからの支えも必要なのである。そういえば攝津は、「マガジン9条」のサイトで、雨宮処凛がヴィジュアル系バンドが自分の支えになっていたと語るのを読んだが、自分だったらさしずめジャズとクラシック、現代音楽だろうか、と思った。ジャズが無ければ生きていけない、と攝津は思った。他者のジャズも、自分のジャズも、生きるのに必要だ。自分は音楽で、音楽の力で生かされている、攝津はそう思った。

 攝津には独りで下らぬ冗談を呟き独りで聞いて独りで笑う癖があった。例えば攝津は、二和向台という町に住んでいるが、それを「片輪向台」だの「豚は無効だい」などと言う。

 攝津は「もやい切断企画(仮)」という文章に怒っていた。怒る自分の卑小さ、狭量さが自己嫌悪を誘うし、怒りを表明する事自体が筆者の挑発に敢えて乗る事だと分かっていても、乗らざるを得ぬ。攝津は、左翼的政治に特有の芸術等への見下した目線を感じた。攝津は、今音楽と文学、哲学に真剣に取り組んでいると自負している。筆者の文章は、そのような者の実存を否定する物以外ではあり得ぬ、と攝津は感じた。それ故の反撥である。自分自身の狂犬性を棚に上げて、攝津は筆者の噛み付き方に激しく苛立ち反撥した。所詮攝津も、ニーチェが批判したような教養俗物のone of themでしかないのかも知れぬ。

 昨晩の小野君のブログへの怒りは攝津の誤解らしかった。攝津は、小野君の主張を「真逆」に受け取っていたのだという。肉体労働による疲弊、読解力の無さ、などからこの誤解が生じたようだ。
 ところで攝津は、自分の両親について語るつもりだ。攝津は、名前は正と言うが、母親は照子、父親は孝和という名前である。攝津は、母親の姓である。父親は旧姓は吉野と言う。実父は、サックス奏者だったが、石橋と言った。

 攝津が「経営」している(藁)、「開店休業」ならぬ「閉店休業」中の店、Cafe LETSを、プロのモダンジャズベーシストの立花さんと、あかねで一緒に当番をやっていた行政書士のゆっくすさん、早稲田大学のサークルで知り合って以来の付き合いのタニケン君が訪れた。立花さんと会うのはほとんど十年振りである。この再会は攝津を甚だしく緊張させ、著しい不安を強いた。攝津のようなトンデモが、プロのミュージシャンとセッションだなんて! そんな事があっていいのか! 攝津は自らの資格を疑問に思い、卑屈になった。攝津は饒舌だったが、不安が饒舌を裏打ちしていた。
 母親、父親も混じり、家族ぐるみで楽しい会話が弾んだが、攝津は不安だった。気が狂いそうだった、と言ってもいいだろう。友人と現に会っているのに不安になるこの心理状態は、攝津自身にも不明な物だった。ただイヴェントに出掛けたり、人と会ったりすると緊張して不安状態に陥る事がよくあるのは自覚していた。その日もそうだったというだけだ。
 長時間話をしたように思うが、何を話したかは攝津はよく覚えていない。ただ確かなのは、攝津の芸術観、労働観、人生観が変らなかったという事だ。攝津は平日は働き休日は簿記の勉強をし、通勤の合間に音楽鑑賞と読書をし独りの時にはピアノを奏でてインターネットラジオ放送をする、そういう者でありたいと願ったし、そういう者以外にはなりたくてもなれまい。人間、出来る事を出来る範囲でするしかないのだ、というのが攝津の頭に浮かぶ決まり文句だった。実際、不可能事を望んだところで仕方あるまい。例えば、男なのに子供を産みたいと思っても無理である。だが、インターネットラジオ放送をしたり、ブログやメールを書く事なら幾らでも出来るし、すべきだ。働けるだけ働き、疲れたら休み、そして音楽を楽しみ、自らも放送する、それでいいのだ。生活の余白で読み、書く。それでいいのだ。プロの物書きになれずとも、プロの音楽家になれずとも、アマチュアでいい。日曜音楽家、日曜作家でいい。攝津は謙遜ではなく本気でそう思っていた。
 攝津にとって書く事や弾く事は楽しみである。そして、楽しみでなければならぬ。ブログやラジオは、快楽を他人に分かち与える為の物である。攝津独りの快楽でなく、複数の者らが楽しめる場を作る事。攝津がインターネットに期待するのはそれだ。 相変わらず攝津にとって生きるのは辛く苦しい難しい事だった。だが芸術が、そんな生を少しだけ明るく照らした。書いている時、弾いている時、ラジオをやっている時、攝津は時々「生きている心地」がした。そしてそれだけで十分だと思えた。それ以上を要求するのは僭越であると。
 ハイチの大地震の悲惨な報道を見て攝津は、これだけ毎日生きるのが苦しい、死にたいなどと言っていながら、実際死なねばならぬ状況に追い込まれたら醜態を晒すのではないかと恐れた。正直に言えば、やはり死ぬのは怖いのではあるまいか。事故、病気、災害等で死ぬのは怖いのではあるまいか。そういう状況になったら、じたばた、あたふたしてしまうのではあるまいか。美しく見事に死ぬなどは幻想に過ぎぬのではないか。攝津はそう考えた。自らの「人間的な、余りに人間的な」死の恐怖が、ひどくありふれて凡庸なので、自分の凡人ぶりが際立つのを感じ、攝津はぞっとした。だが、攝津が凡人であるというのは紛れも無い事実であった。攝津には何か特別な所や変った所は何も無かった。生存を苦しいと思い、しかし死ぬのを恐れる、単なる凡人、それが攝津の現実の姿だった。死にたい、死にたい、と言っても自殺未遂の一度すらした事が無いし、これからも無いであろう。自殺未遂をしないというのは、成る程良い事であるには違いないが、死を本気にしていないという事の証しでもあった。攝津は手首自傷すら痛みが怖くて出来なかった。オーバードーズも馬鹿げた結果に終るのが分かっているのでしなかった。攝津は優秀な患者であった。優等生だった。だが、それは攝津が凡庸であるという事実の証明に過ぎなかった。

 Cafe LETSはあかねみたいな空間を二和向台に、と始めた物だったが客は全く来ず、JASRACと保健所が調査に来た。攝津はげんなりしてあっさり辞めてしまった。これまで攝津が起業したのは、花屋、古本屋、そしてCafe LETSがあるがいずれも客が来ず大失敗に終った。攝津は、自分には本当に経営の才が無いんだと実感する。仕事が無いなら創ればいい、その単純な発想は重要かもしれぬ。だが実際には、仕事創り、起業は大変に難しいように思う。労働者協同組合とかワーカーズコープと言っても実際やるのは難しい。攝津はそれを NAMの経験から学んだ。
 今勤務している会社では、攝津はパートタイマー待遇だが、恵まれていると感じる。上司も攝津の健康状態や精神不安定状態に気を遣ってくれるし、周囲の同僚も温かい。そのような職場を得られた事に攝津は感謝している。紹介してくれたフリーター労組の梶谷君にも。彼が紹介してくれなかったら、攝津は就職出来ず借金も返せず自己破産していたかもしれぬ。そう思うと恐ろしい。ともあれ、一年以上賃労働肉体労働を継続出来ている事に素直に感謝すべきだ。全く有難い話だ。攝津のような鈍で無能な人間を雇ってくれるなんて! 攝津は鈍で無能でおまけに精神病ときている。こんな人間、普通雇われない。実際、個別指導塾を退社して後就職活動をしたが、どこの会社からも断られた。全部、駄目だった。それで攝津は自分にも社会にも絶望していたのである。
 そんな自分が、きつい仕事ではあるが、働く事が出来るというのは僥倖に思えた。感謝の念にたえぬ。攝津は働いている時自分の居場所に居るという感じを抱いている。尤も欝・不安・パニックの時はそれが急によそよそしい不気味な感じに変るのであるが。

 時間はあっという間に過ぎていった。まさに光陰矢のごとしである。grass rootsを創ったのは二千七年の事だったのか。もう三年も前か。攝津は或る感慨に囚われた。
 働いていると、日々が猛烈な速度で過ぎて行く。働き、働き、働き、労働に追われ、それだけで一日が終ってしまう。勿論その事に不満はある。だが、どうしようもない。攝津の状況では働かずに生きて行く事は不可能に近かった。生活保護も障害年金も駄目だし、どうしようもなかったのである。
 攝津は、無職で「惰民で悪いか?」のような文章を書いていた頃のほうが一部の人々から高い評価を受け、地道に黙々と働くようになって逆に評価が下がった事に皮肉を感じていたが、世の中そんなもんだろうとも思っていた。
 某派遣会社で日雇い派遣して労災骨折したり、そういうなんかやらかしてしまう自分のほうが人気は出る。平凡に暮らしている自分は支持、共感されない。それもやむを得ぬ事だと攝津は考えた。労働では、賃金を支払って貰っているのだから、それで満足せねばならぬ。名誉の為に労働しているのではない、金銭の為に労働しているのである。だから、それ以上の物を求めるのはお門違いという物であろう。
 攝津の人生はもう終っているようにも感じられた。もっと上を目指さねば、とも時に思ったが、「上」って何処にあるのよ?と攝津は自分自身に反問した。もっと上、事務職で正社員になったら上に行った事になるのか? しかしそれは安易な発想だし、しかも不可能だろう? と攝津は考えた。では、このまま肉体労働を続けるしかないのか? そのところで攝津は毎日悩んでいた。このままでいいのか。別のありようを目指すのか。

 その日攝津は一時間働いただけで、具合が悪くなり帰宅した。精神病の欝不安のせいであったが、攝津はもう自分には無理だと感じていた。
 帰宅して、CD購入と金銭の事で両親と口論になり、攝津は自殺を決意した。しかし、決意したと言っても、決行出来ぬのもよく分かっていた。生涯何度目の自殺の決意だろう! 何度目の死に損ないだろう! 攝津は、銀行通帳とアットローンのカードを持ち去り、セブンイレブンで二万円借り入れ、ジャズピアニストの浜村昌子の口座に入金した。この購入を巡って、口論になっていたのだった。住宅ローンが無く借金を返す金が無く生活費が無いのにお前はまだCDを買うのか、と。攝津は、それでもCDが欲しかった。
 死ぬと決めた人間が、CDを買うのも可笑しければ、簿記の勉強をするのも倉庫で働くのも可笑しかった。死ぬなら、死ぬ準備だけをすればいい。攝津は死にたい、と強く思った。だが、「思い」だけでは死ねなかった。攝津の身体は、メタボリックである事を除けば健康だった。その身体を何らかの手段で破壊せねば、死ねない。
 死ぬとはどういう事だろう。攝津には子供のように、そんな簡単な事が分からなかった。
 死ねば全ての知覚と記憶が断ち切られるのか。
 死ねば世界が無くなるのか。但し自分にとってだけ。
 攝津には当然ながら、当たり前に過ぎるこれらの問に答えられなかった。それでいて、もう生きるのは無理だ、死ぬしかない、と思い詰めているのである。
 お金が無い。働くのも無理だ。生きられない。
 自立など出来ない。
 単に苦しい。胸や肩が痛い。
 親は馬鹿にして、死ねるものか、と突き放してくる。悔しいが、実際死ねない。死ぬ勇気がどうしても出て来ない。
 親は攝津を禁治産者にするとか、相続を放棄させるとか、出て行って貰う等と言っていた。攝津は、太宰治の『人間失格』のラストを想起した。『人間失格』を読み返したいと思った。自分も恥の多い生涯を送って来たと思うからである。生きている事自体が恥ずかしい。際限も無い欲望、CDが欲しいという欲望を自制出来ぬのも恥ずかしい。三十四、五にもなって自立するどころか両親に迷惑ばかり掛けている事やパートタイマーとは言え就職していても会社や同僚に迷惑ばかり掛けている事も恥ずかしかった。これら全ての事からして、攝津は直ちに死にたかった。だが、死ぬ方法が分からなかった。高いところから飛び降りればいい? 電車に飛び込めばいい? そのようにして肉体を完璧に破壊するというイメージは攝津を畏怖させた。攝津は一瞬の痛み、もし死に損ねた場合の後遺障害などが怖かった。要するに攝津は凡人だった。生きる意欲や気力があるから生きているのではなく、死ぬ勇気やエネルギーがないから生きているだけの、消極的生存者だった。
 攝津には普通の人のように働く事も生きる事も無理だった。生活保護や障害年金を貰うのも無理だった。どうしようもなかった。行き詰っていた。
 何かが攝津の中で爆発した。
 攝津の中で何かが終った。
 攝津は最早生きたいとは思えなかった。攝津は死にたかった。ただひたすらに、死にたかった。だがどうにもならぬ。それもよく分かっていた。
 出勤ももう出来ぬのではないか、と攝津は考えた。退職するか。
 退職して、どうする。
 どうするんだ。
 答は無かった。
 だがもう限界なのは確かだった。攝津はもう駄目だった。攝津は終っていた。
 金銭感覚や経済観念の無い攝津は浪費ばかりしていてこの資本主義社会では生きるのが不可能だった。攝津は自殺すべき人間だった。
 攝津が自殺しないのは罪のように思えた。
 攝津は自分が死すべき人間だと考えた。
 何故死なないのか。死ぬ勇気がないからだ。嗚呼、どうしようもない…。
 精神科に行っても、取り合って貰えぬであろう。こんな事を相談出来る友も無く、組織も無い。もやいであれフリーター労組であれ、攝津の悩みを解決出来ぬであろう。攝津は独りで自分苦を抱えるしか無いであろう。そしてどうする。「滅びる」のか? 「滅びる」。美しい言葉だ。だがその実態は。なし崩しに駄目になっていくというだけではないのか。
 攝津は死ぬしかないのではないのか。
 攝津は生きる事が出来ない。
 攝津は死ぬしかない。

 攝津はセブンイレブンで、NTTの電話料金八千円余を支払って来た。アットローンから借り入れて。こんな借金ばかりの家計がどうなるか、それを考えると末恐ろしかった。しかし銀行預金は、住宅ローン支払いの為手を付ける事が出来ないのだった。
 KDDIの支払いもしようとしたが、窓口で期限が切れているのでお取り扱い出来ないと告げられた。こちらも七千円余ある。それを持って帰宅したら、母が自分で払うと言う。 父が、月に家賃と食費六万円を入れて貰うと宣言した。
 攝津は、帰宅して口論して食事して後、自室で布団を被って寝ていた。そのうちに睡魔が萌した。少し眠ると、シビアな抑鬱が若干ましになっていた。
 母は、お稲荷さんを食べろとか、ねぎとろを食べろとか言ってくるが、口論の事など忘れたようである。
 しかし家族はばらばらなのだろう。
 こうして日記を打てるのもいつ迄続くか分からぬ。
 いつ迄支払いを続けられるか分からぬ。
 物凄く不安である。

 攝津はiwaさんから、連日のネットラジオが影響しているのでは、と指摘を受け、そうかもしれぬと考えた。それと日曜日の友人らの来訪。立花さんやゆっくすさんがいらしてくださったのは嬉しかったが、かなり緊張し不安にもなっていた。「本物の」ジャズ・ミュージシャンとの邂逅。攝津は立花さんらとの会話が攝津の芸術観なり労働観、人生観に影響を与えなかった、自分は変らなかったと書いたがそれが嘘なのではないか。実は甚大な影響を受けた、根底からそれを掘り崩されたのではないか。これ迄の自分で良いのか、という事を考えたのではなかったか。
 それが影響して、精神的に不安定になったのではないだろうか、と攝津は自省した。
 友人と会ったりインターネットラジオをやったり、要するにコミュニケーションを取る事は楽しいが、心身にストレスが掛かる。それにも気を付けねばならぬと攝津は思った。

 攝津は早退した次の日欠勤してしまった。
 父が、もう車で送らない、と宣言したのを見捨てられたように感じ限界に達してしまった。
 もともと、電車通勤していたのだし、可能な筈なのだが、どうにもナイーヴになり傷付き易くなっている。脆い、という印象。自分に対して。
 攝津は、どうしたらいいのだろう、と暗澹たる気分になった。フリーライターやフリーの編集者を目指すか、Cafe LETSを本格経営するか。いずれも無理なような気がした。
 何をやってもうまくいかない気がした。
 実際、何をどうしても無理だし無駄だろうと思える。
 攝津には何も出来ないのだった。攝津は無能であり屑だった。
 攝津は、船橋市地域生活センターオアシスに相談に行こうと思ったが、両親に反対され、中止しようか迷っている。相談したところでどうなる訳でもなし、交通費も掛かるし…。
 馬鹿げた話だが、攝津の人生自体が馬鹿そのものだった。

 自分の中の何処かが何かが脆く弱く成っている、と攝津は感じた。些細な事で痛みを感じ、受苦し、悶え苦しむようになってしまった、というふうに。この苦しさは神経性のもので、喩え難い苦悩であり苦痛である。攝津はもう十年以上前からこの種の苦しみに悩まされていた。肩や胸が痛む。頭が痛む。不定愁訴という奴だ。適応障害、男のヒステリー……デス見沢は、男のヒステリーは軍隊にでも叩き込むしかない、と言っていたがそうなのか。攝津は、自分がヒステリー患者だと知っていた。診断は社会不安障害だったが。ともあれ、苦しいのは確かで、この苦しみより出発するより他無い。
 ほとんど七転八倒するような苦しさのこの苦しみは、精神的な物だったから、何を施そうと治らないし治りようが無いし、只寝る位しか対応方法が無かった。家族も攝津が症状を訴えるのに「仮病」「甘え病」などと罵った。実際、甘え病であったろう。だが真実に病気であったのであり、苦しかったのである。この事実は如何ともし難い。精神科も攝津を持て余している風であった。どの薬を投与しても治らない。面談も無意味である。医者も患者も、この厄介な病気をどうしたら良いか分からなかった。

 攝津はオアシスに面談に行くのを中止した。
 裏柳生タニケンが、攝津が『リプレーザ』に掲載した転向論の感想を公表した。それによると、「友人の転向論を読むが、すべての配線が間違ってるとしかおもえない…いや、その移動の枠組みはノーマルなのだが、その後の個人的実践と夢想通貨metaやらがあらゆるものを凌駕してしかるべきだという誇大妄想がかなり不気味。正気と狂気が混ざっていて手がつけられない…。他にも定額給付金大賛成に、ネオリベ肯定。ロジックがみえない。壊れたな。いやかなりみんな無責任に面白がっているが、実際は認知の歪みの袋小路で思考すらもどうにもならないのが読んだ結論。少しは言葉を知ってる世渡り下手の奇人に小説家をすすめたりするのはよくあるけれど、著作家として生き延びる道はないね。長い間、暖かい目で彼のジャンクに成りかねない風変わりな発言を見守ってきたが。」との事だった。思考すらもどうにもならないとは言い得て妙だと攝津は思った。

 攝津は要するに死に掛けていた。病死。自殺よりましだろう。それ程衰えていた。苦しみは日々に増し、堪え難い迄になって来た。生きるのは難しい、と攝津は呟いた。生存困難系というのが攝津の口癖だった。確かに生存は困難だった。攝津のような者が生きるのは困難だった。生きていけない。

 生存不可能。

 ドゥルーズの『意味の論理学』を読んだ時、フィッツジェラルドが「勿論、人生とは崩壊の過程である」と書いたのが引用されていたのを、攝津はいつも興味深く面白く思い出す。実にその通りだと思う。攝津は、津軽三味線の稽古を辞め、ファンキー・シーズを解散(活動停止)し、人との繋がりを断ち切っていた。労働すら出来ぬようになってきた。相談する人も無く、救済手段も無く、追い詰められていた。ただひたすらに苦しかった。制度的にも何にもどうにも仕様が無いと分かってはいても、もがかずにはいられなかった。攝津が幾らもがいてもどうにもならぬ。それは自明だった。攝津は破滅、滅亡、崩壊を免れる事は出来ぬ。

 攝津は自分が終末に向って、終りに向って一歩一歩歩んでいるのを感じていた。内感も攝津の破綻を示していた。端的に苦しい。強度量∞である。攝津はドゥルーズ=ガタリの語る「死の体験」を生きていた。こういう感じを以前も体験した事がある、と攝津は考えた。ああ、NAMが解散した時だ、と思い当たり、十年一昔のサイクルが閉じるのを感じた。CD買い過ぎで始まった攝津の賃労働は、CD買い過ぎで終りそうだった。もうどうにもならぬ。ただ単に苦しい。攝津はこのように文章を打ちながら、「書き殴る」とはこういう事を言うのかとぼんやり考えていた。攝津は毎日書き殴っていた。一貫性も何も無い、無価値な文章を綴っていた。攝津は両親から罵倒され経済観念が無いと言われていたがその通りだった。攝津は無意味で無価値な営為しか出来ぬのであった。攝津は金を儲ける手段を知らなかった。事業に不向きだった。それで賃労働も不可となれば死ぬより他あるまい。家族ももう死んで良いと許可を与えている。ならば死すべし! 豚、死すべし! 攝津正、メタボ自立豚、死すべし! 死ね! 死ね! 死ね! 攝津は自分に向けて「死ね」を連呼したが、それは単に虚しく響くのみで、実際の死へは一歩も進まぬのであった。攝津は只の駄目人間だった。

 さて、長編私小説『労働』は主人公攝津の自殺或いは病死によって終るのが妥当と思われる。だが、そうはならない。攝津は、何としてでも「生きる」。どういう手段を用いようと、しぶとく「生きる」。生存困難系から生存系へ。サヴァイヴァルを!
 攝津の精神病は治らぬ物のようだ。家を出ぬ限り、両親から自立せぬ限り、治らぬ、と断言する人も居る。今の状態は不安定な基礎の上に建てられた違法建築のような物で、その違法建築の全体をぶっ壊す事が必要だと説く人もいる。そうかも知れぬ。攝津には難しい事は分からぬ。だが、何としても「生きる」つもりだ。明日こそは出勤しよう。出勤して、労働しよう。労働して、賃金を得よう。当たり前の凡庸な日常に復帰しよう! そう攝津は決意した。

<了>


散文(批評随筆小説等) 労働 Copyright 攝津正 2010-01-19 18:02:22
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