【批評祭参加作品】<椎野いろは>さんの『つなぎ』と『低気圧』を読んで
Kashin

<椎野いろは>さんの作品、それは「展開の美しさ」

■作品1

つなぎ   椎野いろは

詩になることで
一歩ずつ押しだされ
ひとつ
またひとつ
人間になっていく

詩になれなかったぼくが
水溜まりに転がって
ぼんやりと
道行くサラリーマンに踏み潰されるのを待っている

カラスに食い散らかされる前に
夕日の端で焼却され
塵となったぼくは
雨粒に溶け込んで
きみの傘へと降りそそぐ

晴れた夜には
大気の層が
ぼくを哀しみで包み込み
誰も気づかなかったような色で
淡い光を灯すだろう

ランダムな日付のカテゴリーに解体され
分類・整理されそうになるぼくを
言葉が
つなぎとめている


■批評

まず前置きとして、私が今後使う「作者」とは、作品を実際に作成した人の事を指し、「語り手」とは、作中で客観的に語っている語り部の事を指し、「主人公」とは、作中で実際に行動・言動している人の事を指します。いきなりそんな面倒臭い事を述べて申し訳ないのですが、それらの区別はとても重要なので、約束事として提示しておきます。<椎野いろは>さんのこの二作品は、おそらくそれら三つの区別が成されておらず、ほぼ同一にして扱っている可能性が高いと思われます。ちなみに、二作品目の『低気圧』は批評の後に掲載しています。

二作品とも、改行する事でうまくリズムを作っているので、読者としてもとても読み易いし、語り手に寄り添って読んで(歩いて)いけます。「詩」は、小説や映画のように物語の形式を取らない事も多いですが、リズムを付ける事で、物語のように展開の盛り上がりを作れる効果を生みます。無論、その効果により、読者もハラハラドキドキしたり、それとは逆に、安らいだり、感情が揺さぶられる事もあると思います。リズムを作るという事は一つの演出技術といっても良いでしょう。改行でリズムを作る事も出来れば、他には例えば、普通なら区切るのに、わざとずらずらと長い一文にして異様な感じや鬼気迫る感じを出す事も可能ですし、わざと全文カタカナにして読み辛くしたり、ロボットなど、人間じゃないような雰囲気にしたり、単語を羅列したり、体言止めしたり、○○よ!とか、ああ、とか使ってみたり、本来一つの文だったものを五行に分けることでサスペンスみたいする事も可能ですし、一行目読んだ後の予想とは反する事を二行目に書いたりもあるやんかね、あ、なんかごめん、リズムとは関係ない話も最後に混入しちゃったけど(笑)、まぁ大人には色々事情があるという事で・・・w。んまぁとにかく、私が思うに、「詩」において「リズム」とは、息遣いを与える事で、作品に命を与える事に等しいと考えています。無生物である作品が、生物になるわけです。改行は詩の基本技術!これマジ最高!

ではそろそろ、本文を読み解いて行きたいと思いますが、『つなぎ』の一連目にある「詩になる」というのはどういう事でしょうか。純粋な存在になるという事かもしれないし、矛盾を受け入れるという事かもしれないし、疑問を抱えるという事かもしれないし、光や闇になる事かもしれないし、冒険する事かもしれないし、生命に絶望・歓喜し、爆発する事かもしれないし、大きな意味で、戦う、または、逃げる、事かもしれません。人によって、「詩になる」という事がどういう事なのか、色々違うとは思いますが、今回重要なのは、この語り手が思う「詩になる」の意味です。この語り手が言うように、「詩になる」ことで、ひとつずつ人間に近づいていくのだとしたら、「詩になれない」「詩にならない」と、人間から遠ざかっているもの(または停滞しているもの)になると思います。一般的に考えたら、詩になろうが、詩にならなかろうが、人間は人間だと考えるはずです。よく、一般的に、残虐な行為など、心無い事をする人間に対して、人間じゃないと言ったりしますが、この語り手もそれと似たように、人間の中にある何らかの部分を、人間らしい部分と、人間らしくない部分とに区別しているのかもしれません。

二連目、詩(人間)になれなかったぼくが、サラリーマン(おそらく、一般社会のシンボルみたいな意味)に踏み潰されるのを待っている。気が強い人間であれば、それに抵抗してもいいし、別に待たずに「水溜り(哀しいイメージの場所?)」なんかじゃなく、何処かに移動してもいいわけです。ですが、この語り手はそうじゃなく、自らの無力感のようなものに打ちひしがれている感じです。だから、「水溜り」なんかで待つしかないわけですが。こういう感覚は、人間誰しも一度は持った事があるし、理解できます。この作中で描かれている主人公の「ぼく」のキャラ設定が、そうなっているので、一個人の読者である私がうだうだ文句を言ったところで、変えようがありません。映画を観賞している人間が、映画のストーリー展開を変更できないのと同じです。だから私は、どんな作品に触れた時もまずは受け入れなければなりません。そして感じ、できれば理解し、一回近付いてみるわけです。どんな作品も、色々な情報(手掛かり)が散りばめられており、受け取る者はそれを拾い集めます。

三連目は面白い展開を見せます。「カラス」は一般的に悪いイメージがありますし、「カラス」の語の直後に、「食い散らかされる前に」とあるので、おそらく語り手がここで提示した「カラス」の隠喩も、あまり良いイメージではないでしょう。カラスは黒なので、暗闇とか、宇宙とか、そういう怖いもの、呑み込んでくるような、そういうメタファー(隠喩)かと思われます。「夕日の端」は、夜(暗闇)の前ですから、「カラス」に呑み込まれる前となります。したがって、「夕日の端」は逆に、やや良いイメージのもので、それに「焼却」されるのですから、悪いものからやや純化された存在に昇華したと思われます。ただ、これは、あくまでも自分の力ではなく、地球/太陽/宇宙/超自然の力によってです。そして、その純化した「ぼく」が「きみの傘へと降りそそぐ」わけです。「きみ(他者)」へ「降りそそぐ」のは、ある種の訴えや共感してほしいなど、そういう他者の存在への渇望があると考えられます。しかし、あくまでも「傘」に降りそそぐのが精一杯で、要するにガードされてます。たぶん作者的には、傘を差していても雨粒の衝撃音が聞こえるように、ある程度は雨粒(ぼく)がきみ(他者)に浸透する、良いイメージで書かれてると思いますが、私が感じたのはやはり、完全には拭えないその孤独感です。

ちょっとここで、違う話をしますが、二連目と三連目に書かれているように、「ぼく」が実際に「水溜り」で転がったり、「焼却」されて「塵」になったり、現実世界では普通はありえませんよね。こういう表現をしても良いところが、表現作品全般に於ける良い(面白い)ところの一要素だと思うのですが、例えば自分をまるで「物」のように扱ったり、客観的な目線で物事を見ようとする行為は、芸術など表現に於ける大変重要な基本技術だと思います。もちろん理性的な態度や観察や分析だけではなく、感情や感覚などの盲目性(のめり込む衝動)も大切だと思います。要はバランスです。個人的には感性大好き人間なので、理性とか論理とかクソくらえなのですが、やっぱり感性方向にいっぱい振った時は、ちゃんと地球の物理法則に従って、逆方向にも同じだけ振っとこうと、思ったりする二十代後半の私です。感性を磨く事は理性を磨く事にも繋がるし、理性を磨くことは感性を磨く事にも繋がると私は勝手に信じてるんですね。要は何が言いたいのかと言いますと、批評を書くと論理的思考だけじゃなくて感性も磨けるんじゃね?ってことで、、批評嫌いのあなたも一回どうぞ・・・という…(笑)。。

で、ええと、四連目は孤独で哀しいけど、やさしいですね。。「淡い光を灯すだろう」、ん〜、なんかやさしい気分になるね〜。。「誰も気づかなかったような色」、自分は居るやね〜、ここに居るんやから!居るどー!、居ますわね、ああ、まぁ、とりあえずまず、自分は自分で愛すわね、でも超自然パワーぼくをサポートしてねん。愛してる宇宙とボク。。。オーロラになった気がする!けど、四畳半の極貧生活だった!ビックリ!!(^o^)/ で、まぁ、弱い自分を肯定する、または否定してもある程度救う、ような内容を含んだ作品というのは、下手に書くとウザいです。私は基本的に弱さを肯定するような内容はあまり好きではないのですが、ウザいと感じさせない面白さや美しさや技術があればいいわけっす。で、ちなみに、この作品はここで終りません。

弱さだけじゃなく、強さが見えた最終連。一連目も相当格好いい出だしでしたが、最終連も相当格好いいです。イイ所もダメな所も全部ひっくるめて自分なのに、自分の部分ABCDが別々に判断され、何かの基準によって決めつけられそうになる、固定化されていく部分が硬直化する!、ああ!俺の体から生気が失われ、石みたいに!乾燥し、ひび割れが!ああ!体が圧力でバラバラに砕け散る!!、でも、そんな「ぼく」を、「言葉が」「つなぎとめて」くれてるんですよ!と考えると、この主人公にとって「言葉」は、矛盾した人間性の接着剤、葛藤する余地、水が水蒸気になって大気になって雲になって雨粒になって降って水溜まりになってそこに詩になれなかったぼくなんかが転がっちゃったりして、夕日の端で焼却なんかされて、え!?また雨粒になって降んの!?みたいな堂々巡りみたいな循環とか、そういう変化していく余地、姿を変えていく自分、「言葉」で、「詩」なんか書いたりして、「ぼく」は・・・「ぼく」の思う人間らしさを獲得できるだろうか。。いや、書くんじゃない、「ぼく」が、「なる」んだ、詩になれなかったぼくが、

詩になることで
一歩ずつ押しだされ
ひとつ
またひとつ
人間になっていく

///


で、えーっとぉ・・・二作品目は敢えて批評しません。作成された時期も一作品目と近いので、作風も似ていますし、似たようなテーマ性、読解が可能だと思います。それでは『低気圧』でさよならしましょう♪^^ ちなみに高気圧は大抵、晴れです^^


■作品2

低気圧   椎野いろは

前線が
ぼくらを踏みつけにして
粘着質の雨を停滞させる
内臓は肋骨にぶら下がったまま
くるくると渦をまいて
今日の天気に反応している
こみ上げてくる葡萄の粒、
胸で弾けて
お気に入りのシャツをひどく汚してしまった
新しい知識をはめこむ細胞に
蚊取り線香の煙が染み
真夜中に/早朝に/夕方に
目を覚ましては
だらしなく口を開きながら
大気のせめぎあいに
気づいていく

地下鉄の轟音のなかに
〈美しいもの〉を忘れてきた
ぼくを
」つかまえてくれ、
カビ臭い岩壁よ
ゆがんだ蛍光灯が
震える自動車のバックシートに照らしだす
鮮やかな鼓動に打たれ
流れるテールランプの残像といっしょに
見すごしてきた過ちが
砂利道に突っ立ってるのに
ただ事態を傍観することもできず
リアルな世界の鳥羽口で
どこまでも濁流に流されて――

ぼくは、形を変えて行く

きみをまるごと引きずり込む
低気圧なのだ。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】<椎野いろは>さんの『つなぎ』と『低気圧』を読んで Copyright Kashin 2010-01-15 22:14:37
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第4回批評祭参加作品