【批評祭参加作品】批評なんて書く気も読む気もしねえっていう、僕へ
葉月二兎
僕は不思議に思うかもしれない。批評祭なんてもんをやって、どうして皆は詩についてウダウダ書くのか、そして批評なんていう難しそうなことをするのか。第一どうしてわざわざ批評なんかをしなければなんないのかって。
じゃあ、僕はなんで詩なんて書いてるんだい? それも何作も。誰かに認められたい? そうだね、みんな多かれ少なかれ詩なんか書くのは、自分のエゴイスティックな感情が動くからにすぎない。で、他には? 書きたいことがあるから? でも、それがなんで詩じゃないといけないんだい。
表現したい? その通り。でも他の人たちは僕の書いたものについて、あれこれ言うかもしれない。「あなたのスタイルは〜」、もしくは「イメージをもっと練り上げて〜」なんてことを言われることもあるかもしれない。
ここでそんなどうでもいいことを挙げてみよう。
【詩になってない】
この世の中で最もくだらなくて価値の無い言葉だ。あんたが詩と思わないことを僕は詩と思っている。こう思えば神様だって納得してくれるはずさ。ただそれだけ。
【詩のスタイルがどうのこうの〜】
これもどうでもいい。どうやって表現するのか、ってのは僕の勝手。表現したいことが表現するように書けば何だって構わない。ようは思ったように書けばオーライってこと。
【眼に見えるイメージを描き出して〜】
もう本当に聞きあきたよ―――少なくとも僕にとっては、ね―――クソッタレ。でも本当に詩がイメージを書かなければならない必要なんて、蟻の涙ほども、全然ない。
僕たちはあまりにも簡単な言葉で伝えられることを、わざわざ詩にしたがる。それもわざわざ難しい言葉を使ったりしてね。別にそれは悪いことじゃないけど、詩なんかにしなくてすむなら、その方が遥かにずっといい。「好きだよ」、「愛してる」、「綺麗だよ」……でもそんなことは本人にちゃんと言った方が人生は上手くいくかもしれない。恥ずかしいって? 気にすることはない。今は詩を書いちゃってるって、暴露される方が恥ずかしい世の中なんだから。ともあれ、時たま神様の気まぐれってやつは、たとえそいつがどんなに敬虔な清教徒かヨブであっても、↓のようにしちゃったりする。
「さようなら」、「苦しい」、「嫌だ」、「助けて」……でもね、こういった感情はそのまま声に出して言ってしまった方が、大概は楽になるってもんだよ。
それでも僕が表現をしたいんだったら、またはこう言ってよければ、「創作」をしたいんだったら、表現したいことにあった形式にするのがベストだ。たとえば絵を書いたり小説を書いたり映画を撮ったりね。これは僕の経験則だけど、詩なんて自分の伝えたいことが一番伝わんない表現方法なんだよ。だからもっと良い方法があるのなら、とっとと詩なんて形で表現するのはやめたほうがいい。
それでも僕は詩なんか書いてる? ま、そうなってしまったんなら、もう病気みたいなもんだ、って思って諦めよう。たぶん僕自身はそいつをこじらせて、誰も読み解けなくて分からないような詩を書いてる。「読み解く鍵ない文章は生活だ」って書いたのはベンヤミンって奴だけど、そいつの言葉だって、「そんな文章を書いてる奴は病気だ」ってことを言い換えてるにすぎない。
もしかすれば、そのうちペニシリン級の特効薬が登場して、僕の知らないうちに世界の全員に処方されるかもしれない。
……まぁ、なんだ。話を戻そう。もう僕は疲れているし、そんなに時間もない。とにかく言いたいのは、批評なんていう御大層な言葉をもち出して、僕や僕の書いた作品のことを一つも気にも留めていないような、お決まりの言葉や単なるジャーゴンの塊なんか気に掛ける必要なんて、宇宙の塵一つ無いってことさ。でもそんなクソの塊を一度でも目の前にすれば、僕は次に詩を書くときに、表現したいことを少しだけ、僕なりに書き表しやすくなるかもしれないけどね。
さぁ、いよいよ終わりにしよう。批評するってのは、作品のことを、それを書いた人のことをちゃんと分かろうとすることなんだ。でもみんな他人のことなんて分かりっこない。僕自身だって、僕のことは分かんないんだからね。でもさ、そう、たとえばそれを、スプーン一匙汲み取ってみるだけでもいいんだよ。
それが結局は批評の言葉になる。
この文書は以下の文書グループに登録されています。
第4回批評祭参加作品