【批評祭参加作品】うたう者は疎外する/される
岡部淳太郎
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社会には様々な個性を持った人が住んでいて、その個性の色合いは千差万別だ。まったく同じ性質の人間は二人といないのであり、それぞれが唯一無二のかけがえのない個性を備えた、取替えの利かない個人で社会は埋めつくされている。そのことをひとまず確認した上で、話を先に進めたい。確かに、人はみなそれぞれに異なる個性を持っている。それらは決して一般化されうるようなものではない。しかしいっぽうで、多くの人が共有する社会の常識というものがあり、それをどれだけ諒解しているかということが、その人に社会性が備わっているかどうかを計る重要な指標となっている。つまりは、身につけた社会常識の濃淡の違いによって、その人が一般的な存在であるか否かということが決められる。言ってみれば社会というのは平均値であり、その値に近づけば近づくほど一般的な存在であり、遠ざかれば遠ざかるほど特殊な存在となる。ここまでは当たり前の話であり、いまさら蒸し返すようなことでもない。では、なぜある者が一般的な存在でありながら、別のある者は特殊な存在になってしまうということになるのだろうか。それはおそらく、社会とそこに住む人々によって決められる問題だ。ある者が自分は一般的な存在になるぞと思って懸命に社会の平均値に近づこうと努力してなるというよりも、それを社会が承認することで初めて一般的な存在として認められる。同じように、意識的に社会の平均値から遠ざかろうとして特殊な存在になるのではなく、社会がその裡に入れるかそれとも弾き出してしまうかで決められる。つまり、ある人が一般的な存在であるか特殊な存在であるかという分類の決定権は本人にはなく、あくまでも社会の側にあるのだ。これはよく考えてみれば当たり前のことだ。なぜなら、一般的か特殊かというのは社会の平均値に合致しているか否かということとほとんど同義であるから、それぞれの個人にそれを決められるはずもない。社会はそこにふさわしい存在を選び取り、ふさわしくないと判断された存在をその外、あるいは周縁部に追いやる力を持っている。マジョリティやマイノリティというのは社会によって生成されるのであり、それぞれの個人が自分はマジョリティになるぞと思って(あるいはマイノリティになるぞと思って)なれるものではないのだ。そして、人はすべて例外なく社会を映し出す小さな鏡であるから、社会が自らに与えた属性を気にして生きていかざるをえない。
当たり前のことだが、人が自らを特殊な存在、社会の中の少数派であると見做すにはそれなりの心的実感が伴っているはずだ。その実感が生まれるには本人の認識と合わせて社会の側からの追認があり、それによって本人が自らの特殊性を自覚するという二重三重の過程がある。個人はまず自らの特殊性、自分は社会の平均値から著しくかけ離れた存在であるということを感じ、そして社会の側から差別されたり冷笑されたりすることで確認する。さらにそうして社会から認識させられたことを自らの中で反芻するうちに、自分でもそれを再確認する。すると再び社会から差別されたりということになって、認識の方向が自分から社会へ、社会から自分へと行ったり来たりしているうちに次第に固められてゆくものだ。ここには人をマイノリティ化させる悪循環のようなシステムが成立していて、この連鎖からはそう簡単に抜け出せないことになっている。
社会の平均値からかけ離れている者は、このようにして社会と相対することで自らが特殊なマイノリティであるという心的実感をつくり出してゆく。自分が社会の平均値から外れた存在であると自覚する「内部からの作用」と、社会から白い目で見られたりといった「外部からの作用」、この内/外の両面からの力によって、個人は追いこまれてゆく。これがもし内か外かどちらか片方のみの力であったなら、強固な心的実感は形成されないだろう。自分の内側と外側両方から矢印の方向が往還するような感じで確認しさらに追認し、果てしなく自らのマイノリティ性を自覚させられてしまう。だから、自分はマイノリティなのだという心的実感に捉えられた者は、それにがんじがらめにされているような状態になっている。もちろん先ほども書いたようにある者が特殊なマイノリティであるかどうかを決めるのはあくまでも社会の側であり、自分はもしかしたら少数派なのではないかという個人の感じだけではマイノリティにはなりえない。その個人の感じを裏書きするように社会の側からの白眼視や差別があって、はじめてマイノリティはつくり出されるのだ。
社会の側がマイノリティをつくり出すということは、それを社会自体が求めているからだ。言わば生贄(スケープゴート)であるが、そのへんの詳細は多くの民俗学関連の書籍で繰り返し語られている。そうして社会から自分たちとは異なる者として扱われ、異なるがゆえにマイノリティとしての社会性を帯びてしまった存在は古今東西途切れることなく生まれてきた。生贄などというと何やらおどろおどろしい未開社会の儀式を想像してしまいそうになるが、明らかな儀式化が簡略されたりなくなったりしただけで、相変らず社会は生贄を必要としているし、その需要に応えて人々は生贄を生成しつづけている。社会が特定のある者に対し自分たちとは違う何かを感じることから、生贄の生成は始まる。それは最初に書いた社会の平均値にどれだけ合致しているかということで計られる。社会は多くの平均値に沿った人間たちと、少数の平均値から外れた者とで成り立っている。平均値に沿った者たちがあくまでも社会の中心であり、そこから外れた者は社会の周縁に存在する(存在させられていると言うべきか)。人間社会というのはある種の秩序であり、もともと大自然の混沌の中から生まれた人間が自分たちの周囲を秩序立てようとしてつくり上げたものだ。人間は本能的に混沌を恐れるから、何としても自分の身の回りを秩序立てておきたいと思う。混沌を整理し分類し、ひとつひとつに名を与える。そうして混沌を排除し、自分たちの社会をつくり上げる。だがいっぽうで、混沌を完全に秩序の方に組み入れることを、人間はしてこなかった。それは単に、文明の発達の度合いがまだ浅かったゆえに組み入れきれなかったというだけではない。おそらく、人間は精神の深層のどこかで混沌をそのままにしておきたいと願ってきたのではないだろうか。人間は自分たちがつくり上げた社会のシステムが原初の混沌の大きな力の前では時に無力であることを知っていた。だから、社会が揺らいでしまった時のためにそれを補助する力を混沌に求めたのではないだろうか。そして、自分たちの住む社会の中にも混沌からの使者を必要とした。それがマイノリティであり、彼等少数派たちは普段は社会の平均値に沿ったマジョリティたちからの白眼視を受けながら、いっぽうで無意識のうちに社会の変革や救済の役割も期待されていたと思われる。つまり、マイノリティは単に迫害されるだけではなく、社会全体の安全弁や救済装置としても存在していた。それは混沌の使者として恐れられ周縁に追いやられながらも、いっぽうでは常人の成しえない大きな力を発揮する英雄にもなりうるという表裏一体の存在でもあったということだ。民俗学的見地ではこれは正しい解釈であろうと思われるが、現代の民主主義社会においてはマイノリティのこうした裏の側面はなかなか発揮しづらくなっていると思われる。太古から中世までの社会において、マイノリティたちは公権力に利用されることが少なからずあった。だが、現代では公権力は縮小し、もっと曖昧な社会全体の意思、世論が大きな発言力を持っている。そのような状況の下では、マイノリティ排除の裏でその力を利用するという両義性は喪われつつある。言ってみれば、マイノリティはより強大な排除の力にさらされることになってしまったのであり、これはマイノリティにとってはかなりきつい状況だ。自らの行動すべてが、時によっては自らが生きていること自体が社会全体から認可されていないという感じに捉われてしまいかねない。結局のところ、マイノリティにとって現代ほど生きづらいと感じる時代はないのかもしれない。
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社会の周縁部に追いやられた者は、必然的に無名性を帯びる。名づけるとは、一種の呪的行為である。私たちは自らの周りに出没する人や物を名づける。名づけることによって、それらを所有する。少なくとも、所有への端緒につくことになる。人は名づけられないものを所有することは出来ない。もし仮に名づけようのない何だかわけのわからないものを所有してしまったとしたら、人はそれに何とかして名前を与えようとするだろう。たとえば憎悪の対象である人物を呪い殺すということが洋の東西を問わずあったが、あれも相手の名前がわからなければ呪いの効力を発揮することが出来ない。相手の名を知ることではじめて、憎悪対象の死という結果を所有することが出来るのだ。つまり、名づけるとは混沌に形を与えるということであり、混沌を混沌のまま所有することは不可能であるから、(社会の中で)生きるために人は事物に名を与えるのだ。そういう観点から考えると、社会の周縁部に追いやられたマイノリティが無名性を帯びるということは、それによってますます社会から疎外されるということになる。人が名づけという呪的な力から離れると、ある「無縁」の感覚に捉えられる。思いきり噛み砕いて言ってしまえば、それは淋しさという感情である。無名ということを現実的に言えば、人に名前を覚えてもらえないということである。そしてそれは、名づけによって所有するという人間社会の法則が自らに対してだけは機能していないということでもあり、そのために他から所有されない、所有の欲望を持たれないということでもあるのだ。そのような状態に置かれることで、彼の心中には混沌が生じる。名づけというものが元々世界の混沌に秩序を与える行為であったことを考えると、無名性の中に投げこまれた個人が混沌を抱えてしまうのはきわめて当然の成り行きだということが言える。
名づけられたものと名づけられざるものの対比によって事物を認識するのが人間の(そして社会の)常であるが、名づけられたものは人々によって社会の内部へと導き入れられ、名づけられざるものは社会の周縁部へと追いやられる。そのようにして世界を認識するというのは、必然的に差別を孕む。認識自体が世界を分断し分節し分類する行為であるからだ。おとなしい目立たない人がともすればいじめられたり迫害されたりするのは、人がどこかで本能的に名づけの力を感じ、目立たないゆえにいまだ名づけられない者として在る存在を恐怖するからだ。だから、社会的に認められない、社会の平均から外れた人や物は必然的に無名性を帯びて、そのために忌避されたり馬鹿にされたりする。そこには自らが名づけられてあることへの安心感と、いまだ名づけられざるものへの恐怖心の、二つの心理が働いている。自らが名づけられてあることへの安心感というのは、名づけによって得た地位を誇り、それをいまだ名づけられざるものに対してひけらかすという行為に結びつく。そこには自らの地位を失ってしまうかもしれない恐怖心が常に裏側に貼りついており、そのためになおいっそう名づけられていないものに対しての酷薄な態度となって現れる。いまだ名づけられていないものは、自分が得ている地位を脅かし、それに取って代わる存在であるかもしれないからだ。同時に、そこには名づけられないものそれ自体への恐れも平行してある。名づけというのは世界の混沌を整理し、秩序立ててゆこうとするものであるから、そこから零れ落ちてしまったもの、名づけられざるものはいまだ混沌の中にあるということになる。名のある者たちで満たされた社会は秩序の側にあるから、混沌の側にある無名性を忌避し、恐れるのだ。それは秩序の側から見て混沌は何だかわからないもの、それゆえにこちら側の法則では計算出来ないような何かを持ちうるものとして感受される。社会の内側にある者は、このようにして社会の周縁にある者を認識する。それは半ば以上無意識的なものではあるが、それゆえに非常にしつこく社会に定着しているものだ。
そのようにして、自らの内側にあるもの=名づけられたもの=秩序、自らの外側にあるもの=名づけられざるもの=混沌、という区分けを社会と人は行ってきた。もともと混沌に形を与えようとするのが人間の欲望である。先に述べたことの繰り返しになるが、そのような欲望があるのならばすべてを自らの内側に、秩序の方に組みこんでしまった方がよっぽどすっきりすると思うのだが、何故か社会および人間はそれをして来なかった。いつもどこかに余剰分を残し、それをあえて整理せず名づけずに、社会の周縁にそのままで放り出してきた。どうして混沌を徹底的に整理して来なかったのか。それはおそらく、ひとつには人がもともと持っている二元化による分節への欲望があるだろう。たとえば昼と夜、男と女、生と死、陸と海、聖と俗というふうに、周囲のあらゆるものを人は二元的に分類してきた。混沌を整理するということには分類も含まれるから、秩序の側にあるものと混沌の側にあるものというふうに分類することで、ひとまず物事を整理するという欲望は叶えられる。つまり、整理し名づけて開拓するということよりも、二元的に分類するということの方が優先されているのだ。そこには、どこかに混沌を残しておきたいという無意識的な思いもあるのではないだろうか。すべてが名づけられ社会の内側に組みこまれてしまったら、それ以上名づけによる開拓が出来なくなってしまう。人の根源的欲求が未知の混沌を整理し開拓することにあるとしたならば、すべてを整理し開拓しつくしてしまえばそうした欲求が満たされなくなる。人として生きる理由の多くが失われてしまうのだ。それを防ぐためにも、あえて未知の部分を残してそれを整理するのを先送りにしてきたとは言えないだろうか。同時に、社会の周縁または外側に混沌を残しておくことで、それを社会の安全弁または活性化の手段として利用しようとしてきたようなところもあると思われる。つまり、社会は意図的に混沌を残してきたのであり、そうすることで秩序を保ってきたのだと言える(余談だが、昔から物語られてきた妖怪や怨霊などの怪異の伝承は、社会のこうした意図的に混沌を残しておきたいという欲求もあって生まれてきたのかもしれない。もちろんそれだけが理由ではないだろうが、妖怪や怨霊などはまさしく混沌の側に属する者であるからには社会や人々の欲求と無関係ではないと思われる)。もしも世の中のあらゆるものが秩序の中に組みこまれてしまったら、どこかで無理が生じてくるだろう。社会はその内側にあるものを平均化する力を持つが、明らかに異質なものまで無理矢理に平均化出来てしまうわけではない。周囲に比して異質なものまで内部に取りこんでしまえば、それが秩序を掻き乱す要因となってしまう。それがひいては秩序を破壊してしまうようになってしまえば、せっかく混沌を整理してきた努力が水泡に帰してしまいかねない。そういう事態は何としても避けねばならないので、異質なものはあらかじめ排除して遠ざけておくのだ。それは、秩序が自らの体系を保持するために必要なことであるからそうするのだ。そこには人道主義的な考えや、排除された者を憐れむなどの感情が入りこむ余地はない。人は秩序の内部にある時、その人個人であるよりも前に秩序の代弁者であるから、極めて機械的に異質物を排除するのだ。
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ここまでは、社会の中でマイノリティとされた者がどのようにして社会から疎外されるかを見てきた。その議論はまだ充分に尽くされたとは言いがたいが、ここで視点を切り替えて、社会から疎外されている者、マイノリティの側から状況を見てみることにする。
既に述べたように、人が自らを社会の中のマイノリティであると自覚するには、何重にも往還した認識の構造がある。人の意識がその中に投げこまれることは、逃げ場のない檻の中に閉じこめられることと同じだ。それだけの強固な認識の往還の中では、自らがマイノリティであるという実感が根強く心中に根を下ろし、容易にそれを覆すことは出来ない。ところがここに、そうしたマイノリティを自覚する心理を良からぬものとして排斥しようとする意見がある。すなわち、マイノリティであることを自覚するのは自分以外の周囲の社会すべてを否定することにつながり、社会への逆差別を生むとして、それを諌める意見だ。これはいっけんまともな、常識的な意見のように見える。だが、常識的に見えすぎてしまうところがくせものだ。この意見がどう問題の的に命中しているのか、あるいは外しているのか、それを見てみたい。
マイノリティの側からの社会への逆差別とは何だろうか。それは自らを受け入れてくれなかった社会を否定する態度であり、こんな一介の個人すら救えない、救おうとしない社会は駄目な社会であるとして、社会への攻撃的な姿勢を伴って現れることがありうるということだろう。さらに言えば、そうした反抗的態度を取るということは社会を一面的にしか見ていないということであり、社会の複雑な実態の層を認識していない近視眼的なものであるという含意もあるだろう。だが、自らのマイノリティ性を自覚した上で社会を否定しようとする者が近視眼的であるのに対して、それを戒める意見はあまりにも近くを見ていない。状況を遠望しすぎているがために、マイノリティであるという自覚に懊悩する個人の心理を読み切れていない憾みが残るのではないだろうか。一方は個人の立場から発言して大きなものが見えていないのに対し、もう一方は社会の中に立脚するがために小さなものが見えていない。どちらも片手落ちという点では同じように見えるのだ。
マイノリティを自覚するがために生じる社会への逆差別を指弾する意見には、一種のモラリスト的な響きがこもっている。そして、モラリスト的態度というものは、しばしば冷たく見えてしまいがちだ。何故そうなのかというと、モラルというもの自体が社会の立場を代弁するものであり、社会の側に一方的に傾いて、数多ある個人の心の彩りを無視してしまうからだ。社会の側に立つということは個人の事情を最初から考慮に入れないということであり(そうでないと、社会的態度であるとは言えない)、それで個人がいくら泣き喚こうが一切関知しないということである。だが、絶えざる認識の往還によって自らのマイノリティ性を確立してしまった個人にとっては、それでは済まないのだ。社会の側からの意見も頭ではわかるが、心情的に納得出来ない部分がどうしても残ってしまう。その、計算式から零れ落ちた余りのようなもやもやしたものを抱えて生きていかなければならないのは他ならぬ自分自身であり、いくら社会の側からそれでは逆差別になるから良くないと言われてもどうしようもないのだ。たとえば生まれつき身体に障害を抱えるとか不治の難病で苦しんでいるとかの場合、自らをマイノリティと見做すのを戒めるといったモラリスト的態度が通用しづらいのは明らかだろう。そのような眼に見える不利な特徴は本人にとっても周囲にとってもある種の刻印(スティグマ)として見られやすいから、よりいっそうマイノリティとしての心的実感をつくりやすい。たとえモラリスト的意見に接したとしても、本人にしてみれば何を悠長なことを言ってるんだと思ってしまうだろう。それほど極端な場合でなくても、マイノリティとしての心的実感の強固さはなかなかしつこいものであり、程度の違いこそあれ、社会の中で少数派である自らを感じて、そこに自らの特殊性を付与してしまうのはマイノリティの自覚がもたらす必然的な帰結であるのだ。それはある意味どうしようもないものであり、マイノリティがマイノリティである限りは消すに消せないものだ。また、マイノリティである自覚から惹き起こされる自我の肥大と特殊化および周囲への敵対心は、自らがつくり出すというより、社会によってつくらされているといった方が正確だ。マイノリティであるという自覚(そこには言わば、眼に見えない心理的刻印〔スティグマ〕が刻まれている)がなければそうした心情も育たないであろうから、個人をマイノリティの認識に追いこんだ社会の側にも責任の一端はある。言わば、社会はその手で自らの敵をつくり上げてしまっているのだ。そのことに思い至らずに、社会の立場を代弁して、マイノリティの自覚に苦しむ個人の側にすべての問題が存在するとばかりに批判するのはあまりにも鈍すぎると言わざるを得ない。
ここでは、客観的態度と主観的態度がせめぎ合っている。自らがマイノリティであると認識した個人の心中では、このような静かなドラマが進行している。人はすべて、どんな者であっても生きていかなければならない。そして、生きるための場所(その手段と実現の双方を包含した)は、社会以外にありえない。ここまではいい。だが、厄介なのは、自分が社会から疎外されていると感じ、それを社会の側から追認させられる個人もまた、社会の中で生きていかなければならないということだ。おまえはこのゲームに関わるなと言われながらも、そのゲームをやらなければ生き延びられないようなもので、明らかな矛盾が生じてしまっている。いくらマイノリティといえども、人であるからには社会的存在である。だから、マイノリティであるという認識によって頑なになりながらも、いっぽうでそうした自分を客観的に見ようという意思が働く。これは主観と客観によって自己が引き裂かれているということであり、社会の内側にいてモラリスト的意見を言う者にはほとんどありえない感覚だ。ということはつまり、社会への逆差別を云々するモラリスト的意見は不完全だということになる。自分の側にはない感覚を相手が持っているのに(さらに、相手がその感覚を根拠にして語っているのに)、そうした感覚のことに思い至らずに批判するのは完全ではないだろう。こうした感覚は当の本人にしかわかりえないような種類のもので(個人の心の中が舞台になっているのだから、それも当然だ)、先のようなモラリスト的意見を言う者に対しては、あなたも自分と同じマイノリティになって体験してくださいと言う以外にない。こんなところにも、周囲から理解されにくいマイノリティの苦しい立場が現れている。
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さて、ここまで来てようやくおおまかな道筋をつけられたように思えるが、ここからはマイノリティが社会に対して果たす役割とは何なのかについて考えてみたい。そして、それこそが筆者がこのコンクリートを流しこんだ枕のようなごつごつとした見栄えの悪い文章で書いてみたかったことなのだ。
マイノリティが社会に対して果たす役割などというと、いっけんはなはだしい語義矛盾であるかのように思える。マイノリティとは社会の内側から外側に向かって弾き出された者のことだ。そんな者が内側の社会に対して何かを成しうるなどとは考えづらいだろう。だが、ここで注意したいのは、社会というものはその内部だけで自足した空間ではないということだ。社会は城壁のように内と外ですっぱりと切断されて、区分けされているわけではない。ここから中は社会で、ここから外は社会ではないなどという、はっきりとした境界線があるわけではない。社会は外側に行くに従って次第に密度が薄くなり、だんだんとフェードアウトしていっているのだ。その社会の実態が曖昧になっている場所にこそ、マイノリティが社会に割りこむ余地が残されているだろう(それは、社会への割りこみ方のひとつの方法でしかないのかもしれないが)。また、マイノリティは社会の外(正確に言うならば「周縁」だが)からでも、社会に影響を及ぼすことが出来る。先ほども書いた通り、社会は周囲の社会ならざるものとの間に明確な境界線を持たないから、外から異物が入りこんでくるのは比較的容易だ。また、社会そのものにも外側から異質なものを取りこんで、それを自らの内で培養して社会のシステムのために役立てようとする機能がある。この小文の最初の方で「社会自体がマイノリティをつくり出すことを求めている」というようなことを書いた。それは畢竟、社会が自らの内側にあるものだけでは成立しえないことを表している。社会は社会の外に弾き出すためのマイノリティを必要としている。それは内側からの不満を抑えこむためのある種の安全弁であると同時に、内側からの作用だけでは自浄能力を持てないがために、外側からの作用によって社会をより強く高い場所へ押し上げるための力が期待されているのだ。つまり、マイノリティが成すべき社会への働きとは、社会の内部に入りこんで行う単純な社会貢献だけでなく(そうした作業は、社会の内側にいるマジョリティが行うのがふさわしい。また、マイノリティよりもマジョリティの方が、そうした作業をよく成しうるだろうことは簡単に予測出来る)、外側から社会を変革してゆくことも含まれている。いや、マイノリティであるからには、後者の働きこそがよりふさわしい。何故社会の外に弾き出されてしまったのか。それを考えるならば、マイノリティは社会を逆差別しなければならない。社会へのそうしたマイナスの(ある種のルサンチマンに似た)思いがなければ、社会を外から変えてゆくことなど出来はしないからだ。ここで前章で挙げた「社会への逆差別はよくない」というモラリスト的意見は完全に否定される。そんなことを言っていたら、社会はいつまで経っても外側からの作用にさらされずに低い位置に留まったままだろう。「それでも地球は回っている」と言ったガリレオ・ガリレイのように、人類の文明の発展や法の整備などがしばしば社会の中の少数意見を元にしていることを考えると、社会への逆差別を戒めるモラリスト的意見は視野が狭いと言わざるを得ない。マイノリティは社会から疎外されているからこそ、自らもそれと同じかあるいはそれ以上の強度でもって、社会を疎外しなければならないのだ。もちろん用心深くつけ加えておくが、その疎外は社会を破壊する方向で働いてはならない。社会を外側から変革するためのマイノリティなのだから、その社会を壊してしまっては意味がない。マイノリティはすべからく、社会を冷静な眼で観察する批評者でなければならない。
ここで想起されるのは、昔から連綿とつづいてきた「表現者」の系譜だ。社会の外に立つことで自らは不遇をかこちながらも、それゆえに社会への痛烈なカウンターとして存在した「表現者」たち。芸術家や異端として一括りにされてきた人々だ。前時代的なアナクロじみた考えだと批判するむきもあるだろうが、歴史を検分すれば、そうした「表現者」たちが社会を変革する原動力を多少なりとも担ってきたことは明らかだ。むしろそうした「表現者」像が古くさいものとして廃棄されるようになったのが、現在の社会の停滞を招いてはいないだろうか。いくらアナクロニズムだと批判されようと、社会の構造を考えるならばマイノリティが「表現者」としての道を歩み始めるのは至極まっとうな帰結だと思われる。
マイノリティは社会から疎外される。そして、マイノリティ自身もまた、社会を疎外する。その互いに疎外し合う関係性の中で、マイノリティの心は育まれてゆく。そんな疎外し疎外される静かな劇が進行する心を持つ者であるからこそ、マイノリティは「表現者」たりうるのだ。自らがマイノリティであるという認識を持つことは、社会に容れられない孤独感とともに、自らの卑小さを思い知らされることにつながる。マイノリティはそうした欠如の感覚に絶えず苛まれている。しかし、昔話の一寸法師がその小さすぎる体躯のゆえにこそ鬼を退治することが出来たように、マイノリティは自らにしつこくつきまとう欠如の感覚ゆえに何事かを成しうるはずだ。言ってみれば、欠如があるからこそ打ち出の小槌を振るうことが出来るのだ。それが「表現」ということであり、「表現者」とは何らかの欠如の感覚と引き換えに「うたう」力を与えられた者の謂いであるはずだ。
ここにマイノリティの「社会的立場」というものがある。そして、そこからある種の「実現」を果たすためには、疎外し疎外されるという社会との相互作用が必要になってくるのだ。マイノリティが社会を変革する力を持つということは混沌が秩序に新しい形を与えるということであり、社会(秩序)がそこに容れられないマイノリティ(混沌)の力をうまく利用しているということである。マイノリティが社会から完全に弾き出されているわけではないのと同じように、混沌と秩序は徹底した対立関係にはない。社会という秩序は混沌を恐れる。何故なら、混沌とは秩序にとってわからないものだからだ。だが、わからないものであるゆえに、混沌にはこの世のものならざる強大な力が備わっているのではないかと、秩序は考える。だからこそ自らの変革とさらなる成長のために、時に混沌の持つ力を利用しようとするのだ。マイノリティも社会にとってはわからないものであり、それゆえに大きな力を持ちうる。わからないからといって、無理に社会の既成の枠に組みこもうとするのは怠惰なことだ。マイノリティの社会との関係性を考慮することなしに、ただ社会の内側に引き入れようとしても意味がない。往還する認識によって根を下ろしたマイノリティ性と、これまた往還する疎外の作用は、ともに社会がつくり出したものであり、それらは社会にとって有効活用することが可能である。残された問題は、社会秩序の内部にいる者が混沌を直視出来るかどうかということだけだ。昨今の均一化された精神性の影響を受けて、異質なものまで平均化してしまおうとするのは愚かなことだ。それでは自らが所属している秩序全体の停滞を招いてしまう。いっぽうのマイノリティの方は、自らが持っているかもしれない力を信じるしかない。自己実現のためでも、遠大な社会貢献のためでも、どちらでもいっこうに構わない。自らが疎外され、自らもまた疎外するという社会との関係性の中で、自分自身を確立させてゆく以外に道はないのだ。そこからおそらく秩序の内側からは決して発生することのない、新しい「うた」が生まれる。そして、いつの間にか「表現者」として存在するようになった自らを見出すことになるだろう(ここで言う「表現者」とは、芸術家や詩人などの文字通りの表現者だけを指すのではない。社会から疎外されている者は必然的に外側から社会を批評的な視線で眺めるようになるが、そのような視点を獲得すること自体「表現者」になるということとほとんど同義であり、特別な創作活動をしていなくても「表現者」たりうるのだ)。「表現」すること。「うたう」こと。うたう者は疎外し、疎外される。そこから響く「うた」は、いまは孤独の旋律を奏でているだけかもしれない。だが、いつの日かそれが受け入れられ、疎外し疎外されることのない、新しい朝がやって来ないとも限らないのだ。
(二〇〇九年六月〜七月)
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