【批評祭参加作品】詩だとかブログだとか日記だとか【虹村 凌】
虹村 凌
ジェームスブラウンが「俺の音楽使って面白い事しろよな」と言ったもんだから、サンプリング文化が生まれてヒップホップが大流行した、みたいな話を何処かで聞いた。生憎、ヒップホップ文化には詳しく無いので深く語れぬが、ヒップホップの起源を辿ればJBに行き着くって程度の事なら知っている。そう、サンプリング、である。何故ヒップホップはサンプリングが許されるのに、ロックはサンプリングが許されずに「パクり」だ何だと言われねばならぬのか。俺はちょっと昔のB’zが好きなのだが、あまりいい顔をされない事が多い。いいじゃないか、本人達だって「聞いてわかる奴はニヤニヤすればいい」と言っていたのだから。何も音楽に限らず、絵画だって映画だって遊べばいいじゃないか、と思うのだ。タランティーノの映画なんか、サンプリングの塊みたいなもんじゃないか。詩だってそうやって遊べばいいと思うんだ。どうせ何の役にも立たない無用の長物なのだ。存分に遊べばいい。反則技なんかありゃしないんだ。
こうやって俺の詩がサンプリングの塊である事を真っ先に正当化しておきたいのは、俺と言う人間が卑怯者であり逃げの姿勢が強いからであろう。サンプリングが上手くないので、よく出典がバレて「○○を思い出しました」と言われてしまうが、そんなのはご愛嬌、であると言いたい。面白い事言うなぁ、と思ったら即座にサンプリングすればいいのだ。長渕剛の表現なんか、俺にとっちゃサンプリングしたい言葉の宝庫である。「クラゲになっちまった」「蝉が泣くチキショウと」「幸せのトンボ」もう素敵過ぎてどう調理していいのかもわからない位だ。恐らく、俺のボンクラ知識に近しい人が読めば、どこからもってきた言葉かすぐに見抜けるのだろうな、と思いながら詩を書いている。
オリジナリティなんぞについて語る気は毛頭無い。オリジナルが何だろうが、面白い事をやった奴が勝ちなのだ。オリジナルが何かなんてのは問題じゃない。パクりだ何だと言われようが、笑わせた(感動させた、感を動じさせた)奴が勝ちなのだ。俺を怒らせたり笑わせたりすれば作品と作者の勝利なのだ。そこら辺については、ひとつ前の批評でも書いたが、俺の斜に構えた「知らんよ」と言う投げやりで倦怠感の強い、とてもネガティブでアンニュイな感覚を、「おっ」と言わせりゃいいのだ。俺が偏った人間なので、なかなかそういう作品に出会う事は少ないのだけど。それは君たちの所為じゃなく、俺の所為なのだ。気にする事は無い。
俺だってそういう作品を書けているかどうかと問われれば、実に怪しい。俺が書く作品は、実際の日常であり、現実の出来事である。色々とボカして書いているのも事実だが、それは君たちにとって「俺の友人が誰とつきあって誰と別れた」等と書いても「知らん」だろうから書かないのだし、俺に拒食症で過食症の妹がいる事も「知らん」だろうから、そんな事は書かずにいるだけだ。それを書く事は作品を現実味があるものにするのでは無く、ただの散文詩的で個人的な日記でしかなくなる。事実、俺の作品と言うのはその日にあった事、その瞬間を切り取って書く以上、日記に近いものだろうと思う。それと作品の線引きは難しいのだろう。作者が作品と言えば作品なのだろうな。そういうものだろう。アンディーウォーホールみたいなふざけた奴だっているのだ。作品と言ってしまえば全部作品なのだ。そういうものだろう。それを見た者がどう思うかは、また別だ。例え見た者が作品である事を否定しても、作者が作品だと言う以上は作品である。よって、日記ですら作品だと言えば作品になってしまう。俺の日記みたいな詩も、こうして作品になってここに投稿される訳だ。
文明の発展により、日記と言うものが世間に公表される機会が多くなり、書き手として読まれる事を意識した作りに変化してきたんじゃないだろうか、と思う事がある。俺が日記を作品へと書き換えた時に、ふと思って以来、ずっと気になっている。読まれる事を意識した時点で、作品への第一歩が踏み出されているのだろうが、それに無自覚な人は多いかも知れない。それを作品と呼ばないのは、そのつもりが無いからなのか、作品と言う事に抵抗を感じるからなのかは分からない。抵抗を感じる事について、理解出来ない訳でもない。相変わらず、詩と言う文化はあまり強く根付いて無い気がするからだ。その苦手意識は何処から来るのだろう。小学校の時とかだろうか。知らんけどな、アンケート取った訳じゃないし。ただ、やはり詩って独りよがりだとか、何かあまりプラスのイメージが無い気がするのは、気の所為では無いだろう。それは詩が面白く無いからなのだろうな。詩がもっと面白くなればいい。文壇だとか何だとかは知らん。現代詩だ古典だ、等と言う議論にも興味は無い。面白ければいいじゃないか、と思うのだが、いかにもボンクラの考えそうな結論だと我ながら思うよ。
その面白そうな事をするにあたって、日常とは切っても切り離せぬ事だと思う。そしてそれを作品にするにあたって、ブログやSNSと言う媒体を語らない訳には行かなくなるだろう。日常とはネタの宝庫であり、それを他人に読まれる形で公開すると意識する事で、その言葉達は面白味と緊張を帯びて、実に素敵なものになると俺は考えているのだ。「知らんよ、君の日常なんぞ」と言うスタンスに相手を引き込むには、それなりの技法と努力が必要だろう。その手法の一つとして、サンプリングがある訳だと俺は思い、己の行為の正当化を計っている。
相手の想像力を刺激せねばならぬ。日常は想像に足るから、共感を得易いのじゃなかろうか。ぶっ飛んだ事も面白いが、他人の日常は更に面白い。だからブログやSNSが流行るのだ。知りたい、覗きたい他人の日常を堂々と垣間みられる。ドキドキするじゃないか!今日は何があったのか?明日はどっちだ?泣き、笑い、怒り、悲しむ他人を冷静に見る。俺の性格が悪いだけかも知れないし、悪趣味なだけかも知れない。ただ、面白い事を求めて行き着いた結論が、これだったのだ。
今日はアルパチーノがでかでかとプリントされたTシャツを探したが、見つからなかった。公式の奴じゃなくて、下世話で悪趣味なプリントされた奴が欲しいのだ。マイケルのシャツは見つかった。パチーノのシャツが欲しいのだ。レスラーのミッキーロークでもいいんだけど。でもこれは詩にならないだろうな、あまりにもボンクラ過ぎて。そう思う。
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第4回批評祭参加作品