【批評祭参加作品】ひろげた本のかたち(佐藤みさ子)
古月

 ・藤篭に鳴く生きものや死にものや


 わたしが佐藤みさ子の川柳と初めて出合ったのは、『川柳MANO』だった。
 『川柳MANO』は樋口由紀子が発行人を勤める川柳誌であり、佐藤みさ子はその会員のひとりである。
 そもそも私と現代川柳との出会いに遡れば、きっかけは確か『幻想文学』に連載されている俳句時評であったと思う。そこでは現代俳句に近いものとして、樋口由紀子の現代川柳が何句か紹介されていた。わたしはそれを読んで、川柳の持つ「平易さによる力強さ」に強く心引かれた。口語でのさっぱりとしたスタイルが、他のどの俳句よりもダイレクトに心を打ったのだ。
 それまでのわたしは、川柳というものについて「日常の諧謔や社会風刺をテーマとして主に扱う、暇な老人の娯楽。求める文学からは程遠いもの」という、勝手な先入観に基づく誤った認識を持っていた。だが実際はといえば、現代における川柳とは、わたしが思うよりもずっと斬新なものだった。
 二物衝突から生まれるイメージの飛躍という詩作法は、こんにち詩全般において割とポピュラーなものだが、わたしがその中でも川柳をとりわけ好むのは、先にも述べたが「言葉の平易さ」のためである。
 川柳には、韻律があり、難解がない。わたしにとっては現代詩のなかの「短詩」や「一行詩」は緊張感のない弛緩したものに見えるし、俳句は少々堅苦しく、しゃちほこばって見える。短歌は語りすぎている。断片的なイメージで鋭く読み手の心にすっと入り込み、言葉を最低限にとどめることで発想の自由度を確保する現代川柳は、わたしにとって居心地が良い。
 
 話を佐藤みさ子に戻す。
 最初に言っておくと、わたしは彼女のことを、何一つとして知らない。
 わたしは彼女とは面識も交流もないし、彼女の人物像や私生活についても、インターネットからは何ひとつ伺えない。わかるのは公開されている略歴くらいのものである。
 本稿の執筆動機は、ただわたしが彼女の句を心底から好きだという、たったそれだけだ。そして、本稿はそうした限りなく予備知識ゼロの状態で書かれていることを、読者にはくれぐれもご留意いただきたい。
 作品を通じて作者自身に切り込むような批評も、それが正当な方法に則って行われる限り許されるはずだが、わたしは彼女について論ずることを、正直恐ろしく思っている。佐藤みさ子は、わたしが広義の詩人の中でただ一人尊敬する書き手だ。本稿を書くに当たっても、これを書いたら失礼なのではないか、これは的外れなのではないか、と様々な葛藤をさんざんしたし、一からの書き直しも、都合十回ほど行った。それでも、最終的に本稿は、もっとも率直で、もっとも遠慮のないものになったと思う。それは本稿が、川柳の門戸を叩いたばかりのわたしから佐藤みさ子への、感謝と敬意を込めたラブコールであるからに他ならない。
 
 前置きが長くなってしまった。恐れずに感じたままを書くことが誠意であると信じつつ、本題に入りたいと思う。
 まずは、佐藤みさ子の句をいくつか紹介してみたい。


 ・春の沼家をさかさに突き落とす
 ・玄関に寝床になだれ込む道路
 ・吊りかごの穴から春の足を出す
 ・カサコソと言うなまっすぐ夜になれ
 ・赤ん坊と視線が合わぬように産む
 
 ・家一つ二つはぎとる目の仕事
 ・みんな帰ったあとの夜空に浮く帽子
 ・点線で表わす塔の地下部分
 ・花びらの汁のしたたり肉屋まで
 ・年齢を問うので足の骨を出す
 
 ・新しい箱を汚していく月日
 ・二人で食う意味を一人で考える
 ・首と身の模様つながるよう祈る
 ・両足を下ろす実印押すように
 ・窓みんな閉めると家が浮きあがる
 
 ・まず首をつくるそれから仕事する
 ・浴室に古い桜の木が一本
 ・身代わりになると言い張る犬連れて
 ・もうすこし掘れば出てくるわたしたち
 ・おばあさんはこれからいぬになるところ

 ・食べられぬものをひねもす焼いている
 ・次は終点ですと他人が声を出す
 ・万物をゆすり子供が通過する
 ・目から水出してせんたく完了す
 ・ガラス屋が来て落日をはめていく

 
 これらを読んで、どう感じられただろうか。
 おそらく、明るいという印象はさほど受けなかったのではないかと思う。印象を言葉で表現しようとするとどうしても、不安だとか、怖いとか、陰のあるイメージをあてはめたくなる句だが、だからといって不快ではなく、どこか懐かしい、童話的な風景でもあるようにわたしは思う。
 ここにあるものは、とても不安定なものだ。ぐらぐらした、あるかないか分からない景色。たとえば、いま自分が目で見ている景色は、もしかしたら目をつぶっている間だけ歪に変容しているのではないか……、視界に納まらない背後では、なにか恐ろしいことが起こっているのではないか……、そして、自分が正常だと思っている日常は、ほんとうは正常ではないのではないか……。あらゆるものの実在が疑わしくなるような、自分に属する全てのものをぐらぐらと揺さぶる、それが佐藤みさ子の川柳だ。
 そしてそれは、彼女にとっての彼女自身が恐らくとても不確かで不安定なことに起因するのではないかと、わたしは考えている。
 たとえば、彼女の句から、顔にまつわるものをいくつか選んでみる。 


 ・どの貌が人間なのか当てなさい
 ・顔の無い人がつくった夕食です
 ・顔半分もらう半分消してから
 ・顔洗い続けていくと骨残る 
 ・「顔無し」と「顔無し」見つめあう電車
 ・「いないいないばあ」をしていて怖くなる

 
 ここには空白のイメージがある。顔は言うまでもなく人間の人格や社会性といった、パーソナリティを表わすものである。
 そして空白といえば、


 ・部屋の空白と争っている
 ・空席にくうせきさんがうずくまる
 ・からっぽをみっしり詰めた人形です
 ・新しい箱を汚していく月日
 ・ねむっているうちに空き箱できあがる


 などの句もあるが、佐藤みさ子はなぜこのように空白を描きたがるのか。
 ことによると彼女自身、自分のことを空白のような存在だと感じているのではないか。だから「部屋の空白と争」ったり、顔の無い不安にさいなまれるのではないのだろうか。ならば句中の「箱」も「人形」も「くうせきさん」も、おそらく彼女自身なのだろう。


 ・歳月や四角になってゆく身体


 この「四角」のイメージが、「箱」からそのまま地続きで「棺」までつながっていると思うのは穿ちすぎだろうか。
 たとえば、彼女の句には葬式を扱ったものが多い。


 ・恩恵のような死に目に会っている
 ・祭壇の写真わたしと違います
 ・拝まれているわたくしは死んだのか
 ・はじまりか終りか布をかけられて
 ・生きていた頃もヴェールを顔にかけ


 彼女は他人の葬式を見ていながらも、どうも同時に自分の葬式を見ているように思われる。彼女と葬式の距離は、常人のそれに比べて余りにも近い。
 この中でも「祭壇の写真わたしと違います」はとくに面白い。すでに死んでいるわたしが祭壇を見ていて「祭壇の写真がわたしと違う」と言っているのか、それとも、他人の葬式に参列した自分が祭壇の写真を見て「あそこにあるのは本当はわたしの写真であるはず」と思っているのか、細かい部分まで突き詰めると、実に多種多様な解釈が考えられる。
 布をかけるという情景も、日本人の心に深く染み付いた、ぬぐえない不安要素のひとつだろう。
 白いシーツを被った子供がおばけごっこをしたりするのは端的だが、もっと日常的な場面で、たとえば食卓の上でふきんを掛けられた皿などにも、正体の分からない不思議な不安感を感じたりはしないだろうか。


 ・食卓に向かうマスクをした男
 ・カーテンらしくふるまっている
 ・青色のシートの下の焼け野原
 ・包まれていると誰だか分からない
 ・災いに布をかけると人のかたち


 カーテンや衣服など、よく見れば日常の中にはそこかしこに布がある。普段は誰もその裏側にひそむものになど意識を向けないが、ひとたびそこに不安を感じれば、もういけない。日常はたちまち非日常になるのである。ここにも不確かさへの恐れがあるのだ。
 だが、日常を隠すのは、布だけではない。たとえば「夜」や「闇」という自然の作用や、自ら目をつぶるという自発的な行動もまた、日常を覆い隠す。
 そこで次は、「眠る」ということを考えてみたい。
 

 ・明日生まれ変わると思う寝入りばな
 ・消したテレビに棺を入れておきました
 ・あおむけになるとみんながのぞきこむ


 眠りを擬似的に死と同一視する観点はわりとありふれたものだが、彼女の句は、不思議と死を特別視していない。
 死とは人間にとって絶対的なものであり、畏れの対象であるはずなのに、彼女はまるで長年暮らした同居人のように死とつきあっているように見えるのだ。


 ・移転する死んで間もない姑連れて
 ・ああ言えばああと答える死後の人
 ・人類の告別式は一時より
 ・葬式が済んだら風呂にしてください
 ・詰めてください次々死者が参ります
 ・亡父も亡母も行くよ不在者投票に
 ・戦死者になって何年経ちますか
 ・亡くなったものがあふれている道路


 日常には死者があふれ、神聖さを剥奪された死が、当たり前のような顔をして彼女の隣にいる。
 彼女の生きる世界では、あらゆる境界がゆらいでいる。本来誰しもが当たり前に引いている自己と他者との境界線、自己を定義付ける他者の存在、生と死、すべてが彼女にとっては酷くあいまいなのだ。彼我が溶け合っている。
 そのため、限りなく希薄な彼女の存在は、他者からの定義が望めない世界で精一杯の自己を保つため、自分で自分を定義付けようとする。


 ・わたしが造るわたしは誰なのか


 自己と他者の境界が存在しない世界は寂しくはないが、それはまた同時に、永遠の孤独をも意味する。本来は外側から恩寵のように与えられる救いは、外側が存在しない以上、絶対にありえない。あいまいになった世界で彼女がすがる藁ほどの確かさ、それこそが己の内にある言葉であったのだろう。自己について書き続けることでのみ、彼女は自分の「空白」のページを埋め、生きた証を「確か」に残せるのだ。だからこそ、彼女はひたすらに言葉を書き続ける。
 

 ・言葉だけ立ちふさがってくれたのは
 ・あちこちを傷つけ滲みてくる言葉
 ・書きながら老いながら死にながら

 
 やや乱暴に言えば、詩人はみな大なり小なり固有のトラウマ、あるいはオブセッションを有しており、そうした心の引き出しの暗い片隅から言葉を抽出している。それはたいていの場合は限りある資源であり、書き続けていると枯渇しかねないものだ。
 だが、この資源は有限であるという逃れられない詩人の宿命においてこそ、佐藤みさ子の強みがある。
 彼女の希薄であいまいな存在は、そのあいまいさゆえに、彼女の目に私たちとは異なる日常を見せる。われわれが暗い片隅からこっそりと取り出してくるものが、彼女にとっては平然と、日常の中に存在しているのだ。そして、日常は枯渇しない。


 ・正確に立つと私は曲がっている


 彼女は、自分の立ち位置の特殊さを自覚している。
 そして、自覚した上でその孤独を受け容れているのだ。


 ・さびしくはないか味方に囲まれて
 ・たすけてくださいと自分を呼びにゆく
 ・たすけてとだれもいわないたすけない
 ・倒れないように左右の耳を持つ

 
 もしかすると、佐藤みさ子は境界線のない人間なのではなく、境界線上の人間なのかもしれない。
 彼女は、生と死のはざまで、生きながらにして死んでいる。あるいは、永遠のように長い死を、ゆるやかに死んでいる最中なのであろう。
 藤篭の中で鳴く生きものと死にもの、これを並べて描写できることが、佐藤みさ子の特異性に他ならない。

 
 ・言葉だけ先に行かせて後から逝く
 ・さよならをするさよならのずっと前
 ・ひろげた本のかたち死というものがあり


 彼女が書くことをやめるとき、すなわち肉体的な死を迎えるときに、佐藤みさ子という一冊の本は未完のままで終わり、あとには開かれたままのページと、彼女の言葉だけが残されるのだろう。
 そしてそれは佐藤みさ子という名前とともにいつまでも語り継がれ、これからも永遠に生き続けていくのだ。


 ・読みふけるブックカバーにくるまれて


川柳MANO
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】ひろげた本のかたち(佐藤みさ子) Copyright 古月 2010-01-11 23:50:21
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