【批評祭参加作品】西瓜割りを見物する人の群れ(詩における批評の風景)
角田寿星
以前、作家の佐藤亜紀さんが『ユリイカ』で、批評とは西瓜割りみたいなもんだよ、という趣旨のことをちらっと書いていて、なるほどうまいことを言うもんだなあ、と思わず膝をたたいたことがあります。引用してみましょう。
批評というものは往々にしてそういうものですが、どんなにうまく書いた
としても相打ち、大抵は明後日の方向に落ちる作家や作品の影に切り付け、
その切り付け方や明後日の方向の偏りによって批評家自身の自分でも気の
付かない正体を語って終ります―だからこそ、西瓜割りを見物する愉快さ、
とでも言いますか、なまじな小説より面白いわけですが。
(『ユリイカ』2006年7月号「小説のストラテジー」)
ここにひとつの批評があったとして、ギャラリーは「読めてねえな」とか「考え方がずいぶん偏ってんな」とか、勝手なこと言いながら囃したてる。「もっと右、右だよ」とか「真後ろにあるじゃねえか」とかの的確なアドバイスが少ないぶんだけ(いや、あるにはあるでしょうが)ちょっと意地悪なギャラリーではありますが、小説批評の世界はそれなりに賑やかそうで、羨ましいですね。
佐藤さんは博識な人ですが(彼女の作品『バルタザールの遍歴』は超一級のピカレスク小説です)小説家なので、こんなことも言ってます。ちなみに連載評論「小説のストラテジー」、最終回だったこの回は、ナボコフやカフカの評論を書いたエドマンド・ウィルソンの評価、でした。
ただし西瓜割りである以上標的がない訳ではなく、振り下ろした先が近いか
遠いかの別は厳としてあり、命中と言える一打も可能なばかりか、外し方に
も良し悪しがあることはお忘れなく。
最後の一文の「外し方にも良し悪しがある」は、確かに心に染みました。が、その前の「標的がない訳ではなく」「近いか遠いかの別は厳としてあり」には、ふーん、小説ははっきりと標的がみえるものなんだなあ、と半ば感慨に近いものを覚えました。
詩というジャンルは、批評の標的となるものは多分あるんだけど、それが最も分かりにくいもののひとつである、と思います。作者さえ「うーん、どうしてこんなの書いたかなあ」なんて言いやがることしばしばなので(在りし日の西脇順三郎センセが自分の作品を語る時よく言ってましたわ)、批評する側は、自分で答えを創作しながら論を組み立てていかなくちゃいけない。それだからこそ面白いんだ、という人もいるでしょうが、やっぱり普通の人にはしんどいことです。近い分野では音楽かな。演奏に関してはさまざまなジャンルでコンテストが盛んですが、曲そのものに対しての批評は―コード進行だとかセリエリズムとか構成とか批評に役立つ材料があるにしても―詩と同じく感覚的なものがかなり入り込むだけに、難しいと思います。
もしかすると詩の批評で西瓜割りをやる時は、目隠しは不要なんじゃないですかね。いっくら目を凝らしても西瓜なんか見えやしない。でもいろんな事情とか理由があって、この詩には何か一太刀浴びせてしまいたい。で、何をするかというと、自分なりの西瓜を創り上げて「いいかみんなこれが西瓜だよ」と高らかに(あるいはおずおずと)宣言しながら、えいやっと振り下ろす。
はいっ、詩の批評いっちょあがり、です。
さて、こうして書かれた詩の批評に対するギャラリーの反応ですが、佐藤さんのいう「西瓜割り見物の快感」を得られることが詩においては少ないのか、黙って見ていることが多いのではないか、と考えます。市場が狭いせいもあるのか、なんとなく静かです。割られて怒る人もたまにいるしね。そんな手合いはどこにでもいるか。
「詩とはなんでしょう」と問題提起した次の瞬間に「わかりません」と書いちゃう、黒田三郎という困ったおじさんが昔いたのですが、確かにそのとおりでして、詩も詩の批評も、答えが存在しないのだから、ぼくらは「いい西瓜を創ったね」とか「気持のよい振り下ろしだ」とか評価するのががせいぜいなのかもしれません。
こんな駄文しか書けないぼくの批評などたかが知れてますが、批評の時にはせめて思い切りよく(そしてできれば丁寧に)振り下ろすことを心がけたい、と思っています。
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第4回批評祭参加作品