「5号は、全体的に、許しとか、ほんのり希望、というものを感じました。特に示し合わせたわけではないのですが」とは、同人の遠海真野の言葉だが、『反射熱 第五号』の詩は、確かに一定の方向性を持っていた。それは「(人や物が)集まる」、「救済」、という二つのイメージに象徴されるものだった。 そして、その「救済」される世界の土台を、岡部淳太郎の「原罪」が支えている。
ここではそれらの詩の個々の関係性に注目しながら、ひとつひとつ読んでいこうと思う。
まず、服部剛の「孤独ノ星」。
>この胸の暗闇には
>ずっと昔から
>宇宙にたった独りの
>小さい地球が
>ぽつんと浮かんでいる
という、オープニングにふさわしい壮大なスケールで「個」をイメージさせ、静かな立ち上がりが素晴らしいイントロダクションとして機能している。また、地球という「個」の中に「地球に生きる命」という集団が内包されていることも興味深い。本誌を最後まで読み終えたあとに再びここに戻ってくると、また違った読み方ができて面白いだろう。短いながらも本誌を見事に象徴する美しい詩篇である。
同氏の「私は、見た。」は、「個」から一歩進み、「小さな集合」を描いている。「個」が集まって力を合わせるという日常の風景の中に、「じーんとくる」救済がある。それは現代社会に蔓延した「いやな世の中だな」といった空気からの救済とでも言うべきだろうか。何気ない「ひとつの絵」に気がつける、作者の視点は優しい。
続く伊月りさの詩では、個人の記憶から紡がれていく糸がたくさん集まって、それが撚り合わされて世界が作られていく光景が描かれている。個人は孤独でも、個人の間には目に見えない「縁」とでも言うべきものが存在し、世界は共有されているのだ。
>点は線になり、
>感傷になり、
>経験になり、
>わたしたちは形成されて、
>
>わたしたちはいっそう、
>群衆になるからだろうか
個人の中にある無数の点が列を成し、破線を描く。そして、それは他者と欠けた点を補い合うことで、それぞれの破線を線にする。このイメージは最終連の描写の巧みさもあって、伊月りさの詩を離れたあとも不思議な余韻を持って持続する。
つぎに、大村浩一の詩である。そこにあるのは一転して、人のいない光景だ。詩中の「私」は、生活の中にあるふとした光景に触れて、宗教者が天啓を得たような、理屈ではない救済を感じる。それは奇跡的な偶然が生み出した人間不在の救済だが、人間の生活の中にある救済である。詩中に描かれた様々な事物には背景があり、そこには「人の営み」があるのだ。そこに気づくと、この詩はいっそう味わいを増してくる。
さて、ここで一つ飛ばして、そうした「人の営み」から一転して自然界に目をむけ、「世界の仕組み」とも言うべき構図から「救済」とはなにかを再度問う、佐藤銀猫の詩である。ここでは一転して、不幸とでも言うべき、自然の厳しさが描かれている。
>今日はこの国や
>内包する宇宙にも
>とりわけ関心がなく
>眠りを貪っているうち
>羽根を失い
>アオムシになったらしい
アオムシに訪れた不幸なできごとは、「ごくふつうのこと」と語られる。
>アオムシは思わない
>しあわせについて
>あるいは明日について
「しあわせ」とは何なのだろう、と考える。もしかしたら「しあわせ」とは、人間が勝手に作り出した、実体のない妄想なのではないか。これまで語られてきた、人の中に確かにあった救済による幸福とは、もしかして幻だったのだろうか?
不安を抱いたまま、次へと読み進めると、これに続く神山倫の詩も、ある種の天啓について描かれている。
へヴィ・メタルライブと演歌放送の観客という、性質の異なる二つの集団が奇跡的に合流する。たったそれだけと言ってしまえばそれまでの小さな物語が、世間の縮図としての「希望」を感じさせ、感動を呼ぶ。この光景は、実に何のことはないが、そこには紛れもない奇跡が存在している。
>人はきっとわかりあえる
こんな、口にするのも恥ずかしいクサい言葉が、圧倒的な説得力を備えるほどに、この情景は説得力がある。
なお、この詩は単体で読めるだけではなく、服部剛の「私は、見た。」や、大村浩一の「街道」と共にあることで、互いに共鳴しあい、より優れた詩として成立しうると感じた。 ここにも「小さな集合」があるのだ。
今までは日常に根ざす「救済」を見てきたが、そこから一歩内側に踏み込んだところにあるのが、寓話としての、岡部淳太郎の「原罪」、そして遠海真野の「パレード」である。これら二篇の詩は、まるでコインの裏表や、タロットカードの正位置と逆位置のような関係にある。
岡部淳太郎の「原罪」は、うまく表現できない不思議な感情を読み手にもたらす詩だ。「変らずにばらばら」な世界に生きる「みんな」は、それぞれが人間として、人間らしく生きているようだが、その実「世界の仕組み」に組み込まれて生きているにすぎない。そのことが物悲しく、また愛おしくもある。
>遠い春の日に
>僕らは追い出されたのだ
>そのことの痛みを感じながら
>やわらかく往く人の
>うたを思い出していた
だが、読み進めるうちに、そうした理解が誤りであることに気づく。楽園追放の物語における禁断の果実は、ここではおそらく「心」なのだ。人間を人間たらしめるものは、アオムシには(おそらく)ない、「しあわせ」を思う心である。
それが「ごくふつうのこと」を不幸せに変え、人間に、痛みを抱えて生きる宿命を背負わせたのだ。かれらの思い出す「うた」は、おそらく誰の耳にも懐かしい、そんなうたなのだろう、とそんなことをふと思う。
そして、この「うた」のイメージを伴って、遠海真野の「パレード」は始まる。
華やかなはずなのに、どこか悲しげなその光景には、読者は最初、違和感を覚えるかもしれない。だが、その「静かなパレード」を歩くたくさんのものたちを一つ一つ追っていくうちに、そのイメージが掴めてくるだろう。
そこにあるのは、この上なく優しいパレードである。そこでは人間も、動物も、物も、すべてが等しく優しい。これまで「反射熱」という長い旅をしてきた読者の胸にある不安に、問答無用で救済を叩きつける、これは静かで力強い無言の意思表示だ。
パレードはいつしか、その列自体が歌になり、「いつまでも いつまでも」続いていく。岡部淳太郎の「原罪」において静かに流れ続ける「うた」と、遠海真野の「パレード」で賑やかに流れ続ける無言の音楽は、おそらく同じものだろう。人が生き続けることは「原罪」であり、また、それ自体が「救済」でもある。そして、それは同時に「贖罪」の唯一の手段でもあるのだ。
今回の第五号は、全体でひとつの詩であると言っても過言ではない、良質なアンソロジーのようだった。本誌は、こうして同人として人が集まるということ、それ自体に大きな価値があると思わずにはいられない、実に優しい詩誌である。この詩誌と出会えたことに、心から感謝したいと感じた。この感情もまた、まぎれもない「救済」なのである。
*「特集・三角みづ紀」と、批評的な散文については割愛した。
詩誌 反射熱
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