勝利という概念は記号の罠だ 仮説メモ
結城 森士

(※今から書くことは、かなり飛躍した考えで、矛盾に満ちている。私自身、今から書くことを本気で考えているわけではない。本気で書いているとしたら、あまりにも宗教じみてもいる。なぜ書いているのかというと、ふと思いついた面白そうなことを忘れないように書き記したいからである。)

「勝つ、負ける」
そこに「優劣」を組み込むのは、生物の遺伝子的な本能だといえる。それは単純に優秀な血を残したいからである。どんな生物も、記号によってコミュニケーションをとり、本能すら記号によって組み込まれている。生物はそもそも「記号化したがる」特性を持っていて、人間はその「記号化したがる」特性を最大限に生かすことが出来たから進化できたわけである(これは、言語、言葉、笑顔、文字、などの発明で分かり、物事を整理して理解しようという記号化の流れが非常に進化したということ)。

そう、生物は「記号化したがる」のだ。
勝者は優秀であり、敗者は劣等 という単純な感覚も、単純な記号化だ。生物は、この単純な記号化によって優勝劣敗を決定して厳しい競争を繰り返してきた。
人間は、時に人間であることを恥じるが、もしそれを考えるのなら、そもそも生物であることが恥なのである。なぜ人間であることを恥じるのか。それは、私達は全ての他者を幸福にすることができず、人の痛みに共感することに限界があるからである。もしそれをしようとすれば、どうしても生きていることの矛盾に繋がってしまうのだ。もう少し詳しく言えば、私達は生き物を食べることで生き延びている。殺戮することで生き延びている。殺戮こそが生きる術である。また、人間同士でも、全ての人を救うことは不可能である。もし例え、人々が最大限、平和に過ごしても、人口が増えすぎると食料が無くなり、危機に陥る。だから、「全ての人が幸せに」「全ての生命が幸せに」…そんなことはありえないのだ。

なのに、僕ら人間は、全ての人間を、全ての生命を幸せにしようと考えてしまう。根本的に不可能にも関わらず。そこで矛盾を感じたりするのだ。
「人間とは、優勝劣敗という、生物の根本的な本能を否定することが出来てしまう」のだ。
「生命の本質的な側面を、そしてその存在意義を否定する」ことが可能なのだ。

だが、私がここで言いたいのは、人間の抱えるその葛藤が無意味だといいたいのではない。世界はどうせ弱肉強食で、劣性は消えるべきだと言いたいのでは決してないのだ。
ここはよく考えるべきだ。私達は生物である。しかし、生物は単純な二項対立に落とし込まれているだけなのだ。それは、生物にとってそれが最も有効で効率的だからだ(というよりも、効率的な生命が生き残っただけであるが。)
理由は、その「効率的」ということだけである。生命は何も本来的に勝負の本能を取り入れたのではない。その方が「効率的であり、生き残れるから」という理由だ。

僕達人間は、記号化の枠を超えることが出来る(それは芸術によってでもある)。生物の抱えている単純な二項対立の記号化を、人間が思想的に断ち切る事だって可能なのだ。今だからこそ。本能だって否定していいのだ。

「僕達は争いたくないのだ」

と、人間は声を大にして宣言するべきである。全生命に向けて。不可能であったとしても、人間は記号化という誤った認識を捨てて、正しい認識を持つべきである。私自身はそうすべきだと思っているが、結論は人それぞれだ。別に「弱肉強食が生命の摂理。劣性は消えろ」と考えていても構わない。ただ、私はそう思いたくないのだ。生命の摂理に反しても、「僕達は争いたくない」といいたい。それが、記号化を推し進めた末の答えであって欲しい。私はそう願う。
生命が優勝劣敗を取り入れたのは、単に効率的だからなのだ。あくまでもやり方であって、それが事実や現実の全てではない。正しい認識を持つべきである。もっと広い視点で、人間は考えられるのだ。

ただ、私達人間は記号化を推し進めすぎたために、全ての人間を幸せにしたいという欲求を、記号化された知識によってかき消される運命にある。
そして記号化によって、精神と現実の矛盾を抱えて自殺を選ぶ。
人間は、本来的に、生命であることに対する矛盾を感じるように作られているのだ。




「勝利、敗北」という単純な二項対立は、生物、とりわけ人間の「記号化したがる」特性によって生み出されてしまった、誤った認識だ。
本来は事実があるだけなのだ。
事実とは
・生きるために生命を奪い、自らは生き延びる。
ということである。

記号化に捉われた人間は「勝ち負け」が非常に好きで、あらゆる面に「勝敗」を持ち込みたがる。彼らは動物的、または生命的だ。

逆に、「全ての人を幸せにしたい」と考えてしまう人間は、非常に人間的であるのだ。それは、人間だけが思うことであるからである。とても青臭いと思われがちだが、人間とはそもそもそういう存在であるのだと思う。


話を戻すが、「勝敗」などといった固定的な観念は捨てるべきだ。物事は固定的じゃない。客観的に考えた時には、絶対的なものなど存在しない。
騙されてはいけない。捉われてはいけない。「勝敗」は存在しない。記号は物事を固定してしまう。優勝劣敗などない。「優れているVS劣っている」という単純化は事実ではない。良いも悪いもない。善悪などない。「勝敗」という概念は記号化の罠だ。事実だけを認識すべきだ。

人間は「記号」を進めたが、同時に物事を固定的に考えるようになってしまった。固定的に考えた結果、「絶対」という発想が生まれた。
しかし物事は流動的なのだ。固定的なものなどない。「勝敗」などない。
繰り返すが、事実だけを認識すべきだ。「勝利」という概念は、記号化の作り上げた虚構の考えだ。


散文(批評随筆小説等) 勝利という概念は記号の罠だ 仮説メモ Copyright 結城 森士 2010-01-06 11:55:26
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