凪が終わる時
within

   凪が終わる時

授業が終わると道人は真っ先に教室を出た。いつもは軽音楽部の部室で、友人達ととりとめのない話をして、ベランダから演劇部の発声練習を眺めながら、本間裕子の姿を追いかけるのだが、今日はそういうわけにいかなかった。ひと気のない自転車置き場の空気は幾分乾いていて、冷たい空気が埃を研ぎ澄ませていた。しかし暗い影二つが、待っていた。道人の自転車に跨った岡沢は、道人の姿を見つけると、にやにやと口元を緩めて、欲望だけの思想のないからっぽの目で笑いだした。すぐ脇には岡沢にいつも金魚の糞のように連れ立っている原野が、猛禽のような目をして道人を睨んでいた。
道人が岡沢達と目を合わさないように自分の自転車に近付いていくと、原野が歩み寄ってきた。
「なあ、千円貸してくれや」
 道人の心は寒さと怯えで小さくしぼみ、小刻みに震えていた。
「持っとらん」
 と白い呼気を吐き出しながら、原野の前で立ちすくんだ。すると岡沢が
「知っとんやぞ。お前がようけ金持っとるって」
と自転車を降りて道人に近付き、覆いかぶさるように腕を回し
「俺にもちょっとくらい貸してくれてもええやろが。ちゃんと返すいよんやぞ」
と口角を上げた。煙草のにおいがした。
 道人は岡沢の腕を振り払おうとしたが、腕力では岡沢に敵わなかった。
「な、一万でええきん、俺タチ友達やが」
「そんなに持っとるわけないが」
岡沢の目を見た。笑いの向こう側で、何か暗いものが立ち上っていた。
「そうか、そうか、そうくるんか。ほならお前のこの自転車、貰ていくわ」
「何すんや」
と道人が微かに怯えた声を出すと、岡沢は再び満足そうに笑みを湛え
「今、持ってない言うんやったら、急ぐことはないんやぞ。今日は俺タチ暇やきん、待っとってやるわ。道人君が家に帰ってお金を持って来てくれるまで、ここで待っとってあげるよ。その間、その鞄を預かっとくわ。何、信用してないわけじゃないんやで。道人君もその方が身軽でええが。さっ、この自転車でひとっ走り行ってきな」
と道人を放した。

陰鬱な影を引きずりながら自転車を漕いだ。悔しくてたまらなかった。それでも道人は家路を急いだ。あんな奴等のことはどうでもいい。そう必死で打ち消した。今日は特別な日なのだ。
 家に着くと、母に尋ねた。
「なあ、きた? 」
母はつっけんどんに
「きとるで。邪魔やきん部屋に運んどいてもろたわ」
と言った。
それを聞いた道人は、二階に駆け上がった。自室に入ると、梱包されたエレキギターとアンプが部屋の真ん中に鎮座していた。道人は興奮を抑えながら、愛おしむように丁寧に梱包を開けた。現れたのは光沢のあるつや光りしたサンバーストの肢体だった。黒いアンプは重厚なスーパーコンピュータのようであり、古代遺跡から発掘された未知の碑文のようだった。アンプに並んであるツマミを適当に回してみた。但しボリュームは最大で。シールドでギターとアンプを直結し、アンプの電源を入れた。まだチューニングはしてなかったが、音を鳴らしてみたかった。
 ピックを右手で抓み、弦を一息で掻き下ろした。震えた。アンプから吐き出される音は道人の鼓膜をちぎれるほどに震わせ、全身の細胞に熱くしみ入るようだった。重なり合う音と音の隙間で余計な感情は押し潰されていった。細胞ひとつひとつがパチンッと音を立てて弾けていく気がした。何かが道人の中で目覚めようとしていた。道人は狂ったように弦をめちゃくちゃに掻き鳴らした。
 大音響に埋まり、目をつむり、今まで味わったことのない陶酔感に浸っていた。これだ。僕が求めていたものはこれだ。高揚と歪みの中に自らを同化させていた。
 そのとき、突然音が止んだ。道人が目を開けると、母が立っていた。
「うるさいが、あんた。こっちは夕飯の準備で忙しいんやきん、そんなことやっとる暇があんなら、ちょっとスーパーに行ってきてくれんかの」
 と母は抜けたアンプのコンセントを握って、言った。
「嫌や。邪魔せんといてよ。うるさいなら、ヘッドフォン使うわ」
 と、道人は拗ねたように母の顔から目を逸らした。
「そのギター買うのに母さんと父さんも少し出してやったんやきん、言うこときいて買い物くらい行ってくれてもええんやないか」
 そう言われると道人は何も言えなかった。
「もちろんその分のお金を今すぐ返してくれるいうんなら別やけど」
道人はギターを置いて立ち上がった。
「わかった、行くわ、行ってくればええんやろ。その代わり、俺が行っとる間に部屋に入らんといてよ」
「ふん。じゃあ、しょう油と大根を頼むわ」
 と母は千円札を渡した。

傾きかけた太陽を背後に、スーパーへ向かう川沿いの道を自転車で走っていた。もう一日の仕事も終わりかけ、解放される期待にあふれながらも疲れを隠せない車の中の大人達の顔は、道人の目には死んでいるように見えた。その時、耳をつんざくようなクラクションの音が響いた。車の陰から道の真ん中で傘を差している男が見えた。自転車で近付いてよく見ると、男は初老で白い髭を生やしており、青いパジャマの上下にモスグリーンのジャンパーを着て、紺色の傘を差していた。その異様な風体に、道人は目を合わせぬよう自転車を漕ぐ足に力を込めた。
 道人は、できる限り早く帰りギターに触れたい一心で、スーパーの中を早歩きで、さっさと頼まれた物をカゴに入れ、レジを済ませた。自動扉を出て、自転車置き場を見ると、先程、道路の真ん中で立っていた傘を差した男が道人の自転車の前で立っていた。ああ、面倒だ、と思いつつ、男を無視して自転車のカゴに買い物袋を入れ、男に言った。
「ちょっとどいてくれませんか」
そうすると男が口を開いた。深い洞穴の奥から聞こえてくる波の満ち干きの音のような声だった。
「君は大事なものを失っているね」
道人は苛ついた。
「どいてくれないと出れないんですけど」
 男の目を見た。男の目元は目脂で汚れていた。
「君が欲しがっても、いくら欲しいといっても、君には手が届かない。資格のあるなしでいえば、君にも資格があるかもしれないが、残念ながら皆待ってくれない。君が辿り着く前に世界は終わってしまう」
 傘を差した男は動く気配がなかった。仕方なく道人は、店の中に戻り、店員に男のことを告げ、男性店員とともに自転車置き場に戻った。店員が
「あんた何してんの? お客さんが迷惑してるから、ここから立ち去ってくれんかな」
 と言うと、男は店員の方に向き直り、言った。
「これは本当のことだから、あなたも例外ではない」
 店員は呆れ顔で
「分かった、分かったけんちょっとどいて」
と男の背後に回り、後ろから羽交い絞めにした。
「お客さん、さあ今のうちに」
 と店員が男を後ろに引きずった。
 道人は店員に頭を下げ、すばやく自転車を出した。自転車に跨り、漕ぎ出すと後ろから男が叫んだ。
「私は神様なんだ。私は神様なんだ。私の言葉を聞きなさい」
 道人はペダルを漕ぐ足を休めず、振り返らないで道に出た。
 薄紫色に染まってきた空を見上げて、何か不思議な気配を感じていた。幼い頃、まだ両親とアパート暮らしだった頃、大きな大人の影を見たことを覚えていた。その大きな影は穏やかにさとす如く道人の手のひらに、動かなくなった甲虫を置き
「君に大事な秘密を託すよ」
と言った。その影が去ったあと、道人は何かその生の抜け殻を持っていることが、唐突に背負いたくもない責任を押し付けられたようで、振り払いたくなり、見つからないように甲虫の屍を道の脇に捨て、家に帰った。
 道人は急に自転車のペダルが重くなるのを感じた。岡沢と原野のことを思い出した。それでも道人は止まらなかった。夕焼けは道人の影を引き伸ばし、遠く彼方から聞こえる残響のように次第に終わろうとしていた。道人の目には、薄っすらと涙のようなものが浮かんでいた。


散文(批評随筆小説等) 凪が終わる時 Copyright within 2009-12-28 22:14:41
notebook Home 戻る