中学生のときにサイモン・アンド・ガーファンクルとボブ・ディランのCDを借りた。サイモン・アンド・ガーファンクルはとても気に入ったのだけれど、ボブ・ディランはダメだった。全くダメだった。何がいいのかわからなかった。退屈で、古くさくて、2、3曲聞き流してそれっきり聴かなくなった。高校時代も何度かディランの歌を聴くことがあった。それでも僕はまるっきり関心がなかった。彼の声は雑音と大差なかった。それはただのノイズだった。ノイズ。ノイズ。ノイズ。それはテレビの砂嵐や隣人のカップルの痴話げんかと相似形をなしていた。
大学に入ってから、受験シーズンの抑圧からの反動で僕はたくさんの音楽や本や映画を聴いたり読んだり観たりするようになった。爆発的な量だった。宇宙が始まったみたいに僕はCDを聴きあさり、ブラックホールのようにあらゆる種類の本を読みふけった。大学二年の冬に僕は中古CDショップでボブ・ディランを手に入れた。Desireというアルバムだった。たまたま目についたので拾い上げてみるとボブ・ディランだったのだ。しかも100円だった。僕は家に帰ってから、スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』をざっと読みながらDesireを聴いた。気がついたら僕は泣いていた。僕は泣いていた。あれほど退屈だったディランの声が、とても素敵な声に聞こえた。子供っぽい声が僕の耳もとで楽しそうに歌っていた。僕はたまらなくなった。次の日僕はボブ・ディランのアルバムを全部買いそろえた。それから一週間僕は家から一歩も出ずディランを聴き続けた。Time out of mindは特に何度も聴いた。300円程度の安いウイスキーを飲みながら(つまりはブラックニッカなのだが)、僕は静かにディランの声に耳を傾けた。そうしたあと、僕は何とも言えない気持ちになった。本棚だった。僕はディランのSaraを聴きながら本棚に向かうと、カバーのない本をすべて取り出した。分厚い哲学書(たとえばメルロ・ポンティの『知覚の現象学』)から新書(『大学生のためのレポート・論文術』)にいたるまで、カバーのないむき出しの本をすべて取り出し、僕は大きな大きな後悔に襲われた。僕は愕然とした。取り返しのつかないことをしてしまったと思った。僕はカバーを捨てるべきではなかったのだと思った。どれほど僕の趣味に合わないカバーだとしても、僕はそれを外して破り捨てるなどということはしてはならなかったのだ。