365分の1としてのクリスマス、あるいは本のカバーについて
robart


I want the toys of other boys
I want a knife and a gun and things
But Mom and Dad will not give in


地下鉄から少し歩いて大通りに出るまでに、4人のサンタクロースに鉢合わせた。
二人は男で、二人は女だった。
ちらつく粉雪と、時折吹く強い北風に肌を震わせ、いずれ半額になるであろうケーキを(プレゼントしてくれるわけではなく)それでもなお売ろうとするミニスカートのサンタクロースなどを横目に見ながら、僕は何とも言えない気持ちになった。

「クリスマスは華麗にスルーするものだよ。」
僕は彼女にうそぶく。
「鈴木大拙なんかを読んで、座禅でも組むんだ。」
僕は実際に去年のクリスマス、鈴木大拙を読んで座禅を組んだ。日本的霊性。禅と日本文化。静かに座禅を組み、無我の境地とやらをのぞいてみた。しかし彼女は冷たくあしらう。
「結局それって、クリスマスを意識してるってことじゃない。」
その通りだった。
「あなたは結局、サンタがプレゼントをいれるための靴下を裏返しただけなのよ。サンタなんて信じないとか言って、靴下を裏返して寝るのだけれど、裏返したところで靴下にプレゼントを入れることができるわけで、あなたは結局サンタを待っているのと変わらない。わかる?」
 僕と彼女はこういった風に、妙に凝った例え話を持ち出しては、お互いにお互いを乾いた笑いで包み合う。それが世間で言うところのクリスマスであったとしても、僕らにとってはいつもと変わらぬ日常でしかない。365分の1としてのクリスマス。サンタは昨日という煙突を通り、今日という暖炉から家に入り、手に取ることも目にすることもできないプレゼントを裏返しにされた靴下の中に入れて、明日というドアから外へ出て行くのだ。

 本について話す。他愛も可愛げもないクリスマスの話は少しおいておいて、本について話すことにする。より具体的に言えば、本のカバーについて。

 僕は服においても、インテリアにおいても、あるいは雑貨全般についてもそうなのだが、色合いをとても重視する。服のサイズや値段や、あるいは少し変わった縫い方、生地、デザイン。それらはあくまで付随的なもので、僕にとってはまず何よりも色なのだ。インテリアや服や、あるいは雑貨といったものは実に購入することが容易い。つまり、色合いだけを考慮に入れてしまえばだいたいはうまくふるいにかけられ、ちょうど僕の気に入るようなものが最後に残るという意味において。考慮すべきはまず色合いなのだ。しかし本は違う。たとえばいま本棚に眼をやればリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』が見える。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』が見える。どちらもカバーをしていない。僕が外したのだ。つまりこういうことだ。本はどれだけカバーが、表紙が酷くても中身が秀逸なものがごろごろしている。本当にすばらしい本なのに、表紙が実につまらないときがあるのだ。これはかなり高い頻度で存在する。そんなとき僕は問答無用で表紙を、カバーを破り捨ててきた。一万円以上する本だろうと捨ててきた。多くの場合、カバーが酷い本はそれを取り外してやると本体の装丁は案外いいものなのだ。『利己的な遺伝子』もそうである。無機質で無粋な表紙カバーを外してやると、黄土色のいかめしい本体が姿をあわらす。あるいはロラン・バルトの『美術論集』もそうだ。そういうわけで、僕は本当に読みたい本があった場合、それがどれだけ色合いや装丁としてまずい表紙、カバーをしていようともそれを購入した。そしてカバーを外して捨てた。僕は長い間それを正しいと思っていたし、もちろん今も色合いが何よりも優先されることには変わりがない。

 話をまた少し変えたいと思う。ボブ・ディランについて。最後にはきっとつながるから焦らず付き合ってほしい。

 中学生のときにサイモン・アンド・ガーファンクルとボブ・ディランのCDを借りた。サイモン・アンド・ガーファンクルはとても気に入ったのだけれど、ボブ・ディランはダメだった。全くダメだった。何がいいのかわからなかった。退屈で、古くさくて、2、3曲聞き流してそれっきり聴かなくなった。高校時代も何度かディランの歌を聴くことがあった。それでも僕はまるっきり関心がなかった。彼の声は雑音と大差なかった。それはただのノイズだった。ノイズ。ノイズ。ノイズ。それはテレビの砂嵐や隣人のカップルの痴話げんかと相似形をなしていた。
大学に入ってから、受験シーズンの抑圧からの反動で僕はたくさんの音楽や本や映画を聴いたり読んだり観たりするようになった。爆発的な量だった。宇宙が始まったみたいに僕はCDを聴きあさり、ブラックホールのようにあらゆる種類の本を読みふけった。大学二年の冬に僕は中古CDショップでボブ・ディランを手に入れた。Desireというアルバムだった。たまたま目についたので拾い上げてみるとボブ・ディランだったのだ。しかも100円だった。僕は家に帰ってから、スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』をざっと読みながらDesireを聴いた。気がついたら僕は泣いていた。僕は泣いていた。あれほど退屈だったディランの声が、とても素敵な声に聞こえた。子供っぽい声が僕の耳もとで楽しそうに歌っていた。僕はたまらなくなった。次の日僕はボブ・ディランのアルバムを全部買いそろえた。それから一週間僕は家から一歩も出ずディランを聴き続けた。Time out of mindは特に何度も聴いた。300円程度の安いウイスキーを飲みながら(つまりはブラックニッカなのだが)、僕は静かにディランの声に耳を傾けた。そうしたあと、僕は何とも言えない気持ちになった。本棚だった。僕はディランのSaraを聴きながら本棚に向かうと、カバーのない本をすべて取り出した。分厚い哲学書(たとえばメルロ・ポンティの『知覚の現象学』)から新書(『大学生のためのレポート・論文術』)にいたるまで、カバーのないむき出しの本をすべて取り出し、僕は大きな大きな後悔に襲われた。僕は愕然とした。取り返しのつかないことをしてしまったと思った。僕はカバーを捨てるべきではなかったのだと思った。どれほど僕の趣味に合わないカバーだとしても、僕はそれを外して破り捨てるなどということはしてはならなかったのだ。

この話を彼女にしたところ、彼女は満足そうに何度もうなずきながらこう言った。
「だからあなたが禅だとか日本的霊性だとかって口にすると、私はたまらなくやるせなくなるのよ。結局、あなたは座禅を組んでいる自分にうぬぼれているだけなのよね。」 

 クリスマスは華麗にスルーされて、またいつものと変わらない12月26日がやってきた。僕は大学二年生の冬――つまりはディランに涙して以来本のカバーを外したことがない。本棚のすべての本は――それがどれほど不器用な色味を提供していたとしても――カバーのついたままにされてある。ディランは歌う。コンパクト・ディスクは40年も前の彼の声をそのままに伝えてくれる。音楽の本質は即興性にあるが、人は絶えず再現性も求めているのだ。
 彼は歌う。朝目覚め、夜眠りにつく。もしその間に自分の好きなことをやっていれば、その人は成功者だと。


散文(批評随筆小説等) 365分の1としてのクリスマス、あるいは本のカバーについて Copyright robart 2009-12-26 00:19:43
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