本能が怖い話を拒絶する 下書きメモ
結城 森士
1…
人は物事を整理し、「記号化」→「体系化」→「理論化」することによって脳を発達させ、進化してきた。いろんなことを「記号化」するによって解釈することによって言語を育み、知識を得てきた。
すなわち人類とは、『体系化、記号化によって様々なものを解釈し、コミュニケーションを行う』生き物といえる。
人は、まだ未開で混沌とした領域を見つけるや否や、「記号化」し、整理し、「体系化」することによって、理解・解明しようとする。それが科学の発展に繋がったし、様々な不思議な現象を解明する原動力となった。
人は未開を恐れる。そこには何が潜んでいるか分からないからだ。人間は本来的に「記号化、体系化」を計ることで進化する生き物であるから、不可解なものや記号化されていないものに対し本能的な嫌悪感を持つ。夢に恐怖を覚えることも、説明不可能な幽霊などの存在にも嫌悪感を持つ。
しかし勇気ある者は、その「知られざるもの」を解明すべく挑戦を挑む。精神医学にて精神世界の深遠に挑むもの、解明されない数学の謎を解き明かそうとするもの、未開のジャングルの冒険家、人体の不思議に挑むもの、宇宙の謎に迫るもの、etc…。
中には、「知ってはいけないこと」を知ってしまい、精神をおかしくしてしまうものもいる。
知的欲求は『個々の精神(主観と呼べるもの)』によって支えられているが、「知ってはいけない領域」を解明するということは、時にはそれすらも破壊してしまうほどの恐ろしさも隠し持っている。
私が思うに、それは「言語化」の限界だ。
人は「記号化」→「言語化」の道をたどったが、「言語」とはある一定方向からの解釈しか出来ない。言葉では表現しきれないことなど五万とある。
「知ってはいけないこと」とは、「言語化不可能なもの」なのだ。
そして、それを解き明かそうと試みて、幸か不幸か解き明かしてしまったものは、言語化できない情報(その質と量の度合いによるが)に脳の機能を破壊されることもある。
逆に言えば、人が未開な部分を恐れるのは、それが人間として「決して知らなくても良い部分」だからなのだ。
本能が、精神の崩壊を予知し、食い止めているのだ。
それは、解明できない現象ではないかもしれない。記号化し、言語化できるものかもしれない。(科学では解明できない部分には、必ず人の精神が背景にある気がする)
解明することによって、人類は発狂してしまうかもしれない。決して知らなくて良いこともあるのだ。人類の、生命としての本能は、そんな知識は必要ないと感じているのかもしれない。なのに、人は知らなくていいことまで知ろうとしてしまう。
2…
心霊現象や神秘的な体験、怖い話、幽霊、こういった類のものに興味を持つ人は多い。自分が中学生の時なんて、本気で幽霊の勉強をしたいと考えたこともある。周りにもオカルトマニアのような人もいて、科学の発達した現代に生きているといえど、心霊現象に興味を持つ人は多い。
科学は様々な不可解な現象を解き明かしてきた。カマイタチの存在は乾燥した真冬に起こる真空波だし、人魂の正体は雷雨の日などに発生する球電だと言われている。
コックリさんや狐憑き、悪魔憑きなども、今で言う精神病のようなものだろう。しかし、本来、不鮮明で謎に満ちた神秘的なことを科学が解明し、理論付けて説明してしまった結果、混沌に満ちた刺激がなくなっていった。
かつて、夜の歩道は電灯も少なく闇に満たされていた。その闇の中にはお化けや妖怪が住める空間が存在していた。しかし今は電灯が整備され、深夜でもコンビニが明かりを灯し、どこもかしこも明るく照らされていて、お化けや妖怪の住むべき領域が激減してしまった。
そんな中、整頓された世界から脱却をしたがっている人も多くいる。その人たちの多くが魅力を感じているのが、科学と隔絶されたアンダーグラウンドな分野であるオカルトである。科学では解決できない混沌とした世界。
それらは、知ってはいけない世界だ。しかし人は知ろうとする。知ろうとする人は勇気があるかもしれない。しかし同時に精神が破壊される可能性があることも覚悟すべきだ。怖い話は精神状態を不安定にする。本能はそれを恐れているのだ。その本能を無視してまで怖い話に触れようとする人は、ある意味で合理的であり、真実と向き合おうとする誠実さを持っている。しかし、それが本能に逆らっていることを理解しなければならない。本能は怖い話を拒絶している。そこに精神を破壊させる狂気をはらんでいる。
しかし、そこには夢が詰まっている。アイデアの宝庫の気がしてならない。面白い。