宇宙というインストゥルメンタル、あるいは逆再生された無音
robart
「人類は未だかつて宇宙で妊娠したことはないんだよ。」
「へえ。」大した興味もないという感じで、彼女はインスタントのブラックコーヒーに口を付ける。宇宙というにはあまりにも薄く、そして濁りすぎたそのコーヒーを彼女は何でもないように飲んでいる。味わってなどいないのだろう。ちょうど次の動作を行うためだけに必要なひとつの通過点のように、彼女はコーヒーを飲む。携帯電話を触る前にはコーヒーを一口飲まないと気が済まないのかもしれない。煙草の残り香が、僅かながら残っていたコーヒーの香りを消しつぶす。
案の定彼女は携帯電話を取り出し、メールを打つ。私は彼女の細い指を見つめる。細かく動き回る右手の親指。他の指は携帯電話にそっとそえられたままだ。爪はひとつひとつしっかりと磨かれていて、付け根は平べったい下弦の月のように白い。装飾など施さない方がよっぽど素敵なのに、と言いそうになったが、彼女の機嫌を損ねるだけだろうと思いやめた。
バッハのブランデンブルグがクラウディオ・アバドの指揮によって軽やかに奏でられる。齧られた林檎のマークがついた真っ白なコンピュータにはユーチューブの映像が映し出されている。演奏者たちは10人ほどで、みな立ち上がった状態で演奏をしている。誰よりもシンプルでしなやかにリズムをとるのはもちろんアバドだ。あごをひき、上目遣いにオーケストラを凝視しながら、タクトを振る。必要最低限の動きで彼らを指揮し、鼓舞し、まとめあげる。エリック・サティの楽譜に書かれた「あなた自身を前提として」という難解な指示文も、アバドなら、あるいはそのタクトで演奏者たちに伝えきってしまうかもしれない。(演奏者たちがそれをどう表現し得るかは別として。)
「こんな退屈な曲、よく聴けるわね。」彼女は携帯をソファーに放り投げると、ハンドバッグからコンパクトミラーを取り出し、目元と前髪をチェックしながら口を開いた。「歌詞がない曲のどこがいいの?」
確かにそうだ。「はじめに言葉があった」とヨハネも書いている。
「もちろん、歌詞のある曲も聴くし、好きな歌詞もいっぱいある。」私は言葉を選びながらそれに答える。
「けど、世の中には歌詞のついた名曲と同じくらい、歌詞のついていない名曲というものが数多く存在する。インストゥルメンタル。」インストゥルメンタル、と私はゆっくりと発音する。
「クラシックやジャズに限らず、ロックにだってインストゥルメンタルの曲はたくさんある。そして、私はどちらかと言えばインストゥルメンタルを好む。別に私はそこまで音楽好きというわけではないんだけれど。本を読むときや、何か考え事をしているときには、歌詞のついた曲は邪魔になることがある。思考が阻害される。」シコウがソガイされる。
「そんなときは、雨音を逆再生したみたいな音楽が聴きたくなる。あるいは、雨音そのものが聴きたくなる。」循環についての考察。
「ふぅん。」彼女はコーヒーカップの取っ手をそっとつまみ、ゆっくりとカップを回した。カップの中に半分ほど残っていたコーヒーが揺れて小さな波ができた。波は渦のようなものを一瞬つくったが、すぐに元に戻った。彼女は、何か大事なものが欠けている、とでも言いたげな表情だった。少なくとも私の目にはそう映った。ものごとの都合上どうしても割愛しなければならなかったが、実はその部分こそが核心だったのではないか。新潮文庫の『サキ短編集』に「スレドニ・ヴァシュター」が入っていないように。彼女の薄く直線的に描かれた眉や、淡いピンク色の唇までもがそんな風なことをほのめかしているように思えた。
「本は読まない?」私は彼女に訊ねる。
「読まない。」彼女はすぐに答える。
「音楽はどう?」間髪入れずに再び訊ねる。
「ほとんど聴かない。洋楽が少し。」やはり間を置かず彼女は答える。
「どんな曲?」と訊ねると、数秒の沈黙があった。
「ノラ・ジョーンズ。」
「ノラ・ジョーンズ。」私は繰り返す。
「クリスティーナ・アギレラ。」
「他には?」
「ホイットニー・ヒューストン。あと、アヴリル・ラヴィーンとか、ヤー・ヤー・ヤーズ。」
ヤー・ヤー・ヤーズ。意外なアーティストの名前が出たので私は驚いて彼女を見た。
「ヤー・ヤー・ヤーズとか、どこで知ったの?」
彼女は答えなかった。思い出す気もないようだ。
彼女はぬるくなったコーヒーを飲み干すと、灰皿の上に残っていた吸いかけの煙草を加え、100円ライターで火をつけた。
本パッケージに記載されている製品名の「lights」の表現は、本製品の健康に及ぼす悪影響が他製品と比べて小さい事を意味するものではありません。
彼女は扇風機に向かって紫煙をゆっくりと燻らせながら、目を閉じた。
私はユーチューブからベルリオーズの幻想交響曲を検索し、列記された検索結果からカラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のものを選び、音量をマックスにした。
もしかしたら、「宇宙で妊娠したように」という指示文が楽譜に載っている曲があるかもしれない、と私は思った。
煙草の煙が扇風機によって部屋中に広がっていく。
カラヤンは手慣れたようにタクトを振るっている。