口髭で人はノロけられるのか
robart

モーパッサンの短編に『口髭』というのがあって、口髭にある種のフェティッシュを感じる女性が延々と口髭愛を手紙にしたためているという作品なんだけれど、その手紙の結びにある、「最後に――口髭万歳!」という部分がどうも忘れられないの、と、たっぷりと口髭をはやした初老の男性を見ながら彼女が言った。早口に。(正確にそういったのかは定かではない。なにせとても早口にまくしたてられたのだ。)
「そう首に筋をいれながらしゃべらなくてもいいんじゃないか?」と僕は苦笑する。混雑したスターバックス。初老の男性は、少し突き出た腹に手をやりながら煙草を吸っていた。ドレッシーな白のポロシャツ(襟を立てている)と、光沢があるカーキ色のチノパン。少しばかり後退してはいるものの、先端まで黒い髪。そういったひとつひとつが綜合して、見る人に上品で清潔な印象を与えている。彼女は僕のあごに残っている2ミリほどの固い無精ヒゲをざらざらと撫でながら、嬉しそうに笑う。
「口髭、生やしてよ。」
口髭万歳、と彼女は僕の手を握り振り回す。僕の眼をじっと見る。
「却下。夏に口髭なんか生やすなんて、正気の沙汰じゃない。」僕は彼女の手を払いのける。
そうでなくても彼女といると暑苦しいのだ。

季節は夏だった。連日気温は30度を超えている。天気予報は見る気にもならない。この時期はゲリラ的に夕立に襲われるものだし、最高気温を聞いたところで、もはや数字は大して意味をなさない。30度も35度も、どうせ暑いことに変わりはないのだ。(リップスライムが「毎日過去最高気温記録、灼熱のビーチで」と歌っていたりするんだけれど、まぁ、全く笑えない。)
ペットボトルは自動販売機から吐き出されるとすぐに汗をかきだし、細かい水滴が集まって大きな粒となり、重力に従って素直にアスファルトへと落下する。(多分重力に逆らう気力もおこらないのだ。)アスファルトはすっかり熱されていて、水滴で黒くなった地面は数秒すると何もなかったかのようにもとへ戻る。夏とはつまりそういうことなのだ。
口髭万歳?なんというか、もう、ファックだ。

夏は好き?なんていう質問はほとんど意味がないんじゃないかと思う。この手の質問はなんのために存在しているんだろう?しかし、彼女はこの手の質問が大好きなのだ。
「夏は好き?」彼女は訊ねる。
「冷房の効きすぎたカフェがなければ少しは好きになるかもしれない。」僕は答える。
「じゃあ、好きじゃないの?」
「すごく好きでもすごく嫌いでもない。」
「わたしは夏好きだけどな。」
「口髭とどっちが好きなのさ?」
「どっちも。」予想通りの返事。
「It's funky モーパッサン。能書はもうたくさん。」
「なにそれ。」
「GRAPEVINEのマダカレークッテナイデショー。」
「あぁ。」彼女はこの手の音楽も大好きなのだ。

女の一生はファンキーさで決まるぞ。

「GRAPEVINEはかっこいいよ。」
「食べ過ぎで脂肪のかたまりにならないようにね。」
不満げに口を膨らませて彼女は「はい」と返事をした。それは僕にエサを食べきれないほど口に含んだハムスターを思わせる。
突然彼女が「あー!」と言った。やっと僕がモーパッサンの『脂肪のかたまり』のことを言っているのだと気づいたようだ。
「『口髭』読んでみて、面白かったら口髭生やしてよ。」
「意味が分からない。」
「『口髭』を読んで、面白かったら口髭生やす。面白くなかったら生やさない。」
「夏が終わったら、考えておく。」僕はあきらめて髪をかきあげ、ロールアップしたシャツの袖を元に戻した。クーラーの機械的な涼しさはどうしても好きになれない。
「今読んで!今から読みにいこう。わたしの家にあるから。モーパッサンの短編集!」彼女は飲み終わったグラスの氷を口に含んでから、脱いであった薄手の七分袖パーカーを着て立ち上がった。先ほどの初老の男性(の口髭)を眼に焼きつけながら、僕をせかす。
僕はしかたなく立ち上がり、時計を見る。3時半。(つまり一番暑くなる時間だ。)
「It's funky モーパッサン。能書はもうたくさん。」僕は小声で歌う。自動ドアをくぐり抜け、外に出た瞬間皮膚の感覚がおかしくなる。一気に気温が10度近く変わるのだ。眼鏡が少し曇る。(どれだけクーラーを効かせていたのだろう?)蝉の声がする。パースの狂った青空と高層ビルが僕を辟易させる。入道雲は中学生の性欲みたいに膨れあがっていて、今にもはち切れそうになっている。(空からおたまじゃくしが降ってきたというニュースが昔あったけれど、考えてみればかなり象徴的なエロティシズムだ。)
自転車が歩道を駆け抜けていく。殺人的混雑。
「口髭万歳!」と彼女は笑う。
まぁ、こういうのも悪くはないんだけれど。


散文(批評随筆小説等) 口髭で人はノロけられるのか Copyright robart 2009-12-05 23:10:27
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