どこかにあるかもしれないもうひとつ別の7月4日
robart
三島由紀夫の『金閣寺』を読んで、『金閣寺』を燃やしたくなった。
京都の鹿苑寺金閣ではない。三島由紀夫の『金閣寺』を燃やしたくなったのだ。文庫サイズの少し厚いその本を、一昨日街のブックセンターで購入した『金閣寺』を、どうしようもなく燃やしたくなったのだ。燃やさないわけにはいかないと思った。一頁一頁にびっしりと、しかし上品に印刷されたひとつひとつの文字が、小さなオレンジ色の炎によってじりじりと焦げついていくのを見届けたいと思った。三島由紀夫が31歳にして到達してしまった美文そのすべてを、しっかりと灰にしてしまわなければならなかった。少なくとも、いま持っている一冊だけでも。必ず。
「博士。」
ドアをノックするのとほとんど同時に、男が部屋に入ってきた。軍服姿の上背のある男は、右手に持った銀色のスーツケースを部屋の中央のテーブルにそっと置いた。男の右腕の手首は、スーツケースと手錠で繋がっている。博士はアームチェアに深く腰掛け、シルクのカーテンがそっと揺れる窓から外を見ていた。
「博士、鍵を。」
男の声はその体格に相応しく、太く低かった。博士は姿勢を崩さず、なにかぼそぼそとつぶやいた。すると数ミリほどの手錠の鍵穴から、カチリという音がした。静寂の中でならなんとか聞き取れそうなほどの小さい音だった。しかしその音にはなにか途方もない意味があるように思われた。鍵が外れる前と後とでは、世界の構成ががらりと変わっているかもしれないような音だった。まったく同じ材料、まったく同じ分量、まったく同じ手順でまったく同じ時間をかけてもうひとつの世界を作り出したはずなのに、まったく違う世界ができてしまったかのような響きがその音にはあった。
男は手首から手錠を外した。手錠はテーブルに置き、男はスーツケースの中央にある上蓋を外し、内蔵された電卓のような数字盤に暗証番号を打ち込んでいった。暗証番号は恐ろしく長かった。100桁近くあったかもしれない。しかし男は一度も指を迷わせることなく、同じペースで淡々と数字を入力していった。その間も、博士はじっと外を見ていた。
ピーという機械音が続けざまに二回鳴り、スーツケースのロックが解除された。男はスーツケースを開き、中にあるものを順に取り出し、テーブルへ並べていった。スーツケースの中には、大小さまざまな石があった。大きいものは10センチほどで、小さいものは数ミリほどのサイズで、透明な小瓶の中にいれられていた。瓶にはコルクで栓がされてあった。剥き出しの石が5つと、小瓶が3つあった。石はどれも表面はつるつるしていて、鈍い光沢があった。
石(と小瓶)を並べ終えると、男は一礼し部屋を出て行った。
博士はまだ外を眺めていた。太陽はゆっくりと山際へ沈んでいて、空は高いところから地表近くへと群青から赤へのグラデーションをつくりだしていた。西日はカーテン越しに部屋へと漏れ、時折風も吹き込んだ。ちぎれ雲が長い時間をかけて窓の中の空を横切っていった。雲は影を帯びていたが、下の部分は少し明るかった。やがて太陽はほとんど山の後ろへ隠れてしまい、空は群青色から黒へと変わっていった。太陽が完全に沈んでしまうと、かわって星がいくつか瞬きだした。星の数は数えられるほどしかなかった。長い時間が経ったが、その間も博士は夜空を見つめて坐ったままだった。ただ呼吸のために胸がわずかに動くだけだった。月が窓の枠内に現れ出した頃、流れ星がやにわにすっと窓の右上部から墜ちてきた。博士は腰を上げ、流れ星に飛び乗ってどこかへ行ってしまった。
博士の部屋には石と、小瓶と、いくつかの家具だけが残った。シルクのカーテンは月の光を気持ち良さそうに浴びていた。