思春期の芸術的な衝動について
結城 森士

 この文章は、自分以外の何者かに対する反発心が一層強くなる時期が思春期だ、という前提のもとに書いています。


 最近は中二病という言葉が流行り、思春期特有の悩みを持つ人間が多くなっています。そういう自分も、未だに思春期特有の症状から抜け切れぬまま身体だけが年をとり、大人の自覚もないままに23歳になってしまいました。
 こういう話題になるといつも、ザ・スミスというイギリスのバンドの「スティル・イル」という曲を思い出します。作詞を担当しているボーカルのモリッシーは、24歳でこの曲の詩を書いています。

http://www.youtube.com/watch?v=OxZo5UODCCg


The Smiths/Still Ill

僕は今日、宣言するよ
人生とは搾取するだけの非常なものだと
英国は僕の国だし
僕らの生活を保障するべきなんだ

「どうしたんだ」って聞いてみなよ
そしたら、その目に唾を吐いてやる
「何があったの」って聞いてみなよ
そしたら、その目に唾を吐いてやる

でも、僕らはこれ以上
あの頃の夢にすがってはいられない
もう僕らはあの頃の夢に
しがみ付いていられないんだ

肉体が魂を支配するのか、
魂が肉体を支配するのか?
よく分かんないよ…

鉄橋の下で僕らはキスをした
だけど、なんだか唇が痛くなっただけ

それはもう、あの頃みたいじゃなくて
もうそれは、あの頃と違ったんだ

僕ってまだ病んでいるのかな?
ああ、僕は病気なのかな?

肉体が魂を支配するのか、
魂が肉体を支配するのか?
よく分かんないよ…

「どうしたんだ」って聞いてくれよ
自殺してやる
「何があったの」って聞いてくれよ
自殺してやるよ

君が明日仕事に行かなくちゃ
いけないんだとしても
やれやれ、僕ならそんな
いまいましい事はごめんだね

だって人生には
もっと良い面もあるから

僕はそれを知ってると思う
だって見てきたんだ実際
そんなに多くはなかったけど

鉄橋の下で僕らはキスをした
だけど、なんだか唇が痛くなっただけ

それはもう、あの頃みたいじゃなくて
もうそれは、あの頃と違ったんだ

僕ってまだ病んでいるのかな?
ねえ、僕は病気なのかな?





 
 なぜ思春期に、自分以外の何者かに対する反発心が一層強くなるといった傾向が多く見られるのか。それはアイデンティティ、つまり自分とは何者かということを考え始める時期だからです。「自分とは何者か」を考え始めると、その人は自分を相対化して考えようとします。つまり、他人と比較するようになるのです。これはつまり自分のことをより深く意識することになります。
 他の人と自分を比較するという行為に付き纏うのが、優越感と劣等感です。他人や自分を相対的な目で見てしまうと、どちらが優れていてどちらが劣っているかという安易な2項対立の罠に陥ってしまうケースが多く見られます。(いや、これはもしかすると罠ではなく、生き物が本来の抱えている遺伝子による本能的なものかもしれません。)いずれにせよ、こういった2項対立の罠に陥ってしまうと、周りの中の自分というものを過剰に意識してしまうようになり、自意識過剰と呼ばれる状態に陥ってしまいます。この時期の子供たちが自意識過剰になっている理由は、一般的には以上のようなことだと思われます。
 
 先ほど述べた理屈で行くと、自意識過剰の状態の人間は自分にコンプレックスを抱えていることが多いです。優越感や劣等感といった2項対立の落とし穴にはまってしまっているからです。そのような子供は、自分以外の何者かに対する反発の心が大きくなっているのですが、多くの子供たちはそれを理論的に説明することが困難です。たいていにおいて、「短絡的に馬鹿にする」とか、「極端なほどの軽蔑の眼差しを送る」といった行為で表現してしまいます。
 それらのほとんどは、「自己正当化」からくるものです。
 彼らは、他人と自分を比較した際、他人より優れている自分や、他人より劣っている自分を自覚します。自分を立脚しようとし、大きな夢や志を持っている人こそ、自らを信じようとするあまりに、他人より劣っている自分を自覚した時には、おそらく相当な心理的ダメージを受けることでしょう。その事実を認めたくないという心理状態になったとき、「自己正当化」をしてしまいます。例えば、社会に適応できる他者と、社会に適応できない自分とを比較した際に、「社会が悪いんだ」と言い切ってしまったり、「あいつは立ち回りだけの人間だ」と、他者を否定してしまったりします。
 「自己正当化」という文字だけを見ると、悪いイメージをもたれがちですが、私は「自己正当化」から来るその発想が決して間違っているとは思いません。一理あるからです。いやむしろ、そのような意見は本質を射ていることもあります。思春期の人も決して頭が悪いわけではないので(当然、馬鹿も天才も居ます)、何処からどう考えても間違っていることを、主張しようと思うわけがありません。確かに、社会には問題があるでしょうし、私たちは現代社会に対して漠然とした不安と不信感を抱いています。しかし、それは人類の発展とその是非にまで影響する難しい議論になってしまいます。人類の発展の立役者が、他でもない「言語」なので、その「言語」の存在についての議論を、上手く「言語」で説明できないのも、当然といえば当然でしょう。
 こういった自己正当化に対して、ダメだしをする人(特に親)は多いですが、一理ある意見(場合によっては真理)を否定するということは、子供を、大人の力や親の権力で縛り付けることになりかねません。これでは、ますます世の中の不条理を意識することになってしまいます。
 
 話を戻します。
 他者に対する批判を持った思春期の人たちの中には、他者に対する批判を、言葉で表現しようとします。しかし、それらの多くはとても抽象的で、とても他人に通じるものではありません。何かを伝えたいという気持ちは切実に伝わってくるものの、その内容が抽象的過ぎて、自分以外の誰にも分からない、そんな文章を多く見ます(まさに、この文章のように)。彼らの文章は自己完結してしまっています。他人に理解してもらおうという気はないのかもしれません。他人のためではなく、自分のために書かれた文章。吐き出すように書きなぐられた言葉。思いつくままに書かれた衝動的な文章。それでも響いてくる何かはあります。それは、言葉を超えた魂の叫びのような。それが思春期にしかかけない文章だと思うのです。

 芸術一般にもいえることだと思います。というのは、芸術は、文章で説明できないことを表現することに長けているからです。言葉で表現しきれない感情や衝動を芸術に昇華する。それが思春期の芸術に対する初期衝動だと思います。そして時に、技巧を超えた魅力を発揮します。

 しかし、文章能力の向上や、芸術の技術やスキルを身に付けていくにしたがって、彼らは初期衝動を失っていくのでしょう。混沌としたものを表現していたものが、技術を身に付けることによって、混沌を整理できるようになっていくからです。そうすると、彼らの内なる葛藤は昇華されていき、自分をコンプレックスの呪縛から解き放ち、言葉にならない叫びから開放されていくのかもしれません。
 ですが私は、他人の受け売りの技術で上辺だけ体裁を整えることで誤魔化してしまった人が多いと感じています。
「本当の言語」とは、自分の力で、自分だけの言語を探してようやく得ることが出来るものだと思っています。私は、自分だけの、「言語」を身に付けるべきだと思っています。
 そしていつか、自分だけの言語、自分だけの文法、自分だけの表現方法を会得したときに、ようやくその人は「思春期の初期衝動」ではなく、本当の芸術を描ける人になるのだと思っています。「僕は病気なのだろうか?」という歌を歌うことで、多くの思春期の人たちの心を救った24歳のモリッシーのように。


散文(批評随筆小説等) 思春期の芸術的な衝動について Copyright 結城 森士 2009-11-30 03:53:01
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