即興——improvisation
robart


良質なノイズの海に身を投げ出し、波に逆らうことなく流され、海水を肺一杯に飲み込むと、自分が細かな細胞ひとつひとつの集合体であることが感じられる。脳に酸素が行き渡らなくなり、意識が遠のいていく。それでも音楽は鳴り止まない。痙攣が始まる。空気の振動を感じる。同時に、自分の意識の核のようなものが――そんなものがあればの話だが――細胞とは無関係に存在しているように感じる。脳細胞が死んでいく。ノイズが一定のリズムを帯び始める。それは心音と重なっている。むしろ心音がノイズと化していく。どこからが現実でどこからが空想か。それを決定するのは客観的真実でも公理でもない。意識だ。現実とは脳の中にある、と自分の意識がそう考えている。脳は考えない。意識が考える。意識が考えている、と意識が考える。ノイズのボリュームが下がっていく。空気の、あるいは海水の振動数が落ちていく。それは現実に起こってはいないかもしれない。けれどもそういう理屈でもって音量が下がったのだと意識が考えている。意識が判断している。カントが批判するまでもない。何も信用など出来ない。悟性など海中の汚泥にまみれて端から使い物にならない。突然何も聞こえなくなる。何も見えなくなる。暗闇。ブラックアウト。死ぬ。意識がそう考える。そこで目が覚める。我に還る。平衡感覚がない。けれど意識は妙に鮮明で静寂に包み込まれている。網膜にクリアな映像が映し出されている。目の前に小さなテレビがあり、ブラウン管が女性のアナウンサーを映し出している。几帳面そうな目元を映し出している。小さな点の集合がそれを作り出している。(細胞のように。)アナウンサーは僕の死を告げている。僕が自殺したという事実を告げている。現実がそこにある。重力を感じる。アナウンサーは同じ原稿を繰り返し読み上げている。しかし僕は一度しか死ななかったし、もう一度生まれ変わりもしない。ノイズだけがそこにある。それは解読できないまま知覚され、意識の核を揺さぶっている。僕は死んでいる。意識がそう告げている。そういうプロモーションビデオを君は見ている。


自由詩 即興——improvisation Copyright robart 2009-11-28 00:03:13
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