夢と記号に関するメモ
結城 森士
夢を分析しつつも、オカルティズムを認めず、あくまでも合理主義を貫こうとしたフロイトは記号的なのだろうか。
一方、同じく夢についての考察をしながらオカルティズムに傾倒し、未知の神秘に対しては謙虚な態度をとり続けたユングは脱記号的なのだろうか。
ユングは、フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであるが、自分の言う無意識とは「人類の歴史が眠る宝庫」のようなものである、と例えている。
自分は以前、夢を見た。
「何かとてつもなく重要なことを理解する」夢だった。
そして、その内容を自分は「理解」した。
言葉ではない、何かで。
記号ではない、何かで理解した。
『夢の中の無意識は、人類の歴史が眠る宝庫』
元型
合一
一体
(生命は元々1つの存在だった)
(生命は元々1つの生命だった)
理解した瞬間、自分は発狂すると思った。
通常の人間が理解できるものではないからだ。
そして、理解するということは、言語を否定することだと知った。
言語を捨て去ることでしか、本質は理解できないということを知った。
人間は、言語に縛られてしまい、真実を見抜く力を失った。
理解したことによって、言語、そして論理性を失うと知った。
それは大きな恐怖だった。
結局、その「理解した内容」を言葉にしようとしたとき、「理解」は崩壊した。
言葉によって記号化することの出来ない「解答」だったのだ。
つかみかけた理解は、夢の内容を忘れていくと同じように、曖昧に遠ざかっていった。
その頃から、夜驚に悩まされている。