芸術とエンターテイメントの対立に関して メモ
結城 森士

ふと思いついたことを書く。

大御所の映画評論家の中には、映画はエンターテイメントが前提であると主張する人が多数いる。また、映画は産業であり、ビジネスであるということを大々的に主張し、周囲に吹聴する人も多くいる。
そういう人は、従来の映画制作論(映像記号論)から逸脱した作品群を、自己満足として酷評する傾向がある。

デヴィット・リンチに関する批判の中に、以下のような文章がある。

「彼らは、自分の欲求不満や満たされない感情から来る自己憐憫などを表現し続けようとする。理解されることを求めているわけではないのだから、もちろん他者に対して呼びかけようとするのではなく、自分の欲求をぶつけているだけにすぎない。自己顕示欲に包まれたマスターベーション映画だ。こういう映画を撮り続ける人は今後も絶えないだろう。映画とは、人に理解してもらうことが前提なのに、だ。嘆かわしい。」

上記のような主観的な意見を延々と並べ立てて、作品を批判する文章が多い。
自分にはこれらの意見が、長いものに巻かれきってしまい、更にそのことにすら気づいていない鈍感な批評だとしか思えない。

映画が人に理解してもらうことが前提とは、誰が決めてしまったのか。
映画がエンターテイメントを前提にしているとは、誰が決めてしまったのか。


例えば、批評家Aが 映画「××」の☆☆のシーンにおけるカットのつなげ方は、○○より▽▽の方が良いと言ったとする。
そして、批評家Bも 映画「××」の☆☆のシーンにおけるカットのつなげ方は、○○より▽▽の方が良いと言ったとする。
更に、批評家Cも、 映画「××」の☆☆のシーンにおけるカットのつなげ方は、○○より▽▽の方が良いと言ったとする。

すると、映画の手法としては、「○○ではなく▽▽の方が正解である」と解釈されてしまうことが多い。全く馬鹿な話だ。

映画の手法に正解があるわけが無い。芸術の表現方法に正解があるはずも無い。
しかしエンターテイメントであり、商業であることが前提である映画は、表現方法に正解を出してしまうのだ。
『商業である以上、“より多くの人が理解できる表現が正解”なのだ』。

大勢の人が、「○○ではなく▽▽の方が良い」と思ったら
○○は不正解で、▽▽は正解になってしまうのだ。
芸術センスの欠片もない批評家の多くが、▽▽が正解といったら○○は握りつぶされてしまうのだ。

長い目で見たら、○○の方が味わいがあり、新鮮な驚きを生むかもしれない。
長い目で見たら、▽▽の方はありきたりすぎて、つまらない俗物かもしれない。


まだ3歳か4歳の幼児に、コンビニの甘〜いチョコレートと、高級店の苦味のあるチョコレートと比べて見てもらおう。味に知識の無い幼児は、「甘さ」に惹かれ、コンビニのチョコレートを気に入ってしまうだろう。しかし、大人になるにつれて、「苦味」の持つ良質な味覚に惹かれていくかもしれない。

本物は本物を見抜く。知識の差だ。3万円のバイオリンの音色も、弾き手の技量が良ければ優れているだろう。しかし、300万円のバイオリンの音色は、3万円のバイオリンには出せない味とコクがある。それは、深みを知るもののみが見分けることの出来る芸術である。



「映画は商業が前提だ」と言い張る批評家たちは、大衆の素人知識に迎合し、長いものに巻かれ、レベルの低い表現方法を評価しすぎている。
3歳の幼児には、コンビニのチョコレートしか売れない。売れるものが正解であるならば、コンビニのチョコレートが正解だ。
そんな理由で、高級店のチョコレートを批判するのだ。

今の日本は(少なくとも映像表現は)、単純かつ安直、非常に直結的で安っぽい「甘さ」に毒されている。

長いものに巻かれる批評家は、時勢が変われば、つられて意見も変わってしまうんだろうがな。
一生したり顔をしてオナニーをし続けるがいいさ。







意見は、立場によってコロコロ変わってしまうものだ。
自分のおかれた立場に都合の良い解釈をして、対立する意見にぶつけてしまう。
以上の自分の主張は、二項対立による批判合戦と同じかもしれない。何ら意味を持たないのかもしれない。

生き物は弱肉強食という逃れられない連鎖の中にいる。人間も、あくまでその中のひとつだ。
それによって、「相手をつぶそうとする欲求」が本能的に働いていると仮定したら、「批評者は自分の考えに反するものを批判して潰そうとして発言する」。また、「表現者も自分の考えに反するものを批判して潰そうとして発言する」。だって、その方が、自分が認められるようになるから。
人は一生を通して自分の存在に意味を見つけ出そうとする。とカミュが言った。
自分の存在に意味をつけるために、相手を否定する。それが2項対立の正体だとしたら。
僕は全く愚かなことを書いているに過ぎない。

世の中は、「必要」が溢れている。
いかに「必要」を「充足」にしていくかが、僕たちの役割なのに。

相手を批判し、潰してのし上がっていく場合じゃないぞ。

相手を批判する?
そんな余裕があるの?自己顕示欲は捨て去れ。

必要を充足に変えていくこと
つまり、「やらなければならないこと」だけを最短距離で導き出す。
それだけを考えろ。それだけを考えるべきだ。



散文(批評随筆小説等) 芸術とエンターテイメントの対立に関して メモ Copyright 結城 森士 2009-11-20 17:24:23
notebook Home 戻る