【超短編小説】走る僕の足
なかがわひろか
僕は真っ暗な中を走っていた。それは疑いようもないほどの暗黒の中だった。僕がなぜ走っているのか、当の本人である僕にも分からない。前に進んでいるのか後ろに進んでいるのかも分からなかった。ただ僕は真っ暗な中を必死に足を動かしているに過ぎなかった。僕は息を切らせながら走っている。こんなに苦しい思いをしてまで走るのは、小学校のマラソン大会以来だった。確かあのときの僕は完走することができなかった。僕は走りながら一度目をぎゅっと瞑った。閉じた瞼の中にはさきほどと寸分変わらぬ暗黒が広がっていた。目を開いても、暗黒さは何も変わらない。さっきと異なる暗黒なのか、まったく同じものなのか。もちろん分かる術もない。
僕は馬鹿らしくなって、走るのをやめようと思った。どこに向かっているのかも分からないし、ただ体力が奪われていくだけだった。未知の世界に来てしまっているのなら、体力を消耗するのは避けた方がいい。けれど僕の足は僕の意に反してその走りを止めようとしない。体は消耗する一方なのに、僕の足は僕の意志からは完全に分離していた。
やがて僕の足は明らかに右へと向きを変えて走り続けた。僕の足はこの暗闇の中で一つの信念を持ち、突き進んでいるようだった。僕ははあはあと息を切らせ、耐え切れないほどの喉の渇きを感じながら、足の赴くままに走り続けた。
僕の足はその後も左へ曲がり、右へ曲がりを繰り返し続けた。何度も通った通学路のように僕の足は躊躇することはなかった。もう止めることはできないことはよく分かった。そして僕は体の辛さを紛らわせるために、まったく関係のないことを考えようとした。
ここに来る前(ここがある場所であると仮定した場合のことだ)、僕は歌舞伎町の風俗街を歩いていた。朝から無性に女を抱きたいと思って、耐え切れずに繰り出した。風俗に行くのは初めてのことだった。性欲を一人で処理することもできた。しかしその日の僕の性欲は一つの意志を持った堅固な柱のように僕の中にそそり立った。僕はどうしても女の顔に僕の精液を撒き散らすことしか考えることができなかった。たくさんの匿名性を帯びた人々の間を、強大な性欲を抱えて歩くのはひどく骨が折れた。ここで性欲の柱をなぎ倒す訳にはいかなかった。僕はなんとしても職業女の顔に、僕の精子をかけなければならなかった。やがて僕は適当な店を見つけ、好みの女を選び部屋へと通された。写真とは似ても似つかない女が部屋に入り、僕を浴室へと促した。厚塗りの化粧でニキビ痕を隠した、無目的に太った女だった。彼女の肥満体は何のアンチテーゼを示すものでもなかった。無意味な脂肪が、こってりと女をコーティングしていた。周りの酸素までがその脂肪に吸い込まれているようで、僕は息が苦しくなった。僕は息を絶え絶えに、散々女の風貌を罵った。女は慣れているのか、僕の言うことに耳を傾けず、黙って僕の性器を洗い出した。いつの間にか僕は上着を着たまま、パンツを脱がされていた。女の脂肪に気を取られている間に、女のぶよりとした太い指が僕の性器に触れた。不覚にも僕の性器は今までにないくらいに屹立していた。勃起している性器を見て、僕はとてもやりきれない気持ちになった。女が油っぽい唇で僕の性器を口に含んだ瞬間、僕は射精し、女の顔いっぱいに精子を振りかけた。それは女の化粧を剥がし、その下からケツの穴のようなにきび痕が姿を見せた。彼女の顔一面に広がったにきびというにきびが僕を見つめているようだった。それを見ているうちに再び僕の性器は勃起を始めた。女は嬉しそうに声を上げて笑った。にきび面が縮んだり伸びたりまるで冬篭りを終えた虫のように蠢いた。
僕は女をその場に立たせ、無理やり性器を女に突き刺した。このような行為が禁止されているのは知っていた。けれど僕にはもう自分を止めることができなかった。女は嬉しそうな悲鳴を上げ、僕はコンドームもつけず何度も何度も女を突き上げた。
僕の記憶はそこで途切れていた。僕は女に挿入しながら、ここに来てしまったのだ。女はその後僕のことを店のマネージャーに知らせただろうか。僕はきっと多額の罰金を支払わされるに違いない。あれほどよがっていたにも拘らず、女は僕から金を巻き上げるのだろう。僕はほとんど残っていない貯金を全額下ろされて、それでも足りない場合はサラ金で用意させられるのだ。僕の人生は終わったも同然だった。そう考えると僕はこの暗黒の中にい続けることがもっとも安全な状況なのだということが分かった。僕の足は相変わらずどこかに向かっている。それはもしかしたらここから抜け出すための出口なのかもしれない。出てしまえば僕は一生追い回される生活を送るだろう。僕は必死で足の動きを止めようとした。ここから抜け出す必要はない。僕はこのままこの暗黒の世界に留まっておきたい。それでも僕の足は言うことを聞かなかった。それどころかさらにそのスピードを速めたように思えた。もしかしたら出口が近いのかもしれない。僕は目を閉じて何度も祈った。どうか歩みが止まるように、と。
目を開けるとペタペタという足音だけが聞こえた。真っ暗な世界の中で僕の足だけが浮き上がって僕の前を走っていくのが分かった。僕と足は分離され、僕の足だけが出口に向かって走り続けていた。僕はその場から動くことができず、もう留まることしかできなかった。それでも僕はどこか安心していた。僕の足音は少しずつ遠ざかった。
(おわり)