満月
にゃんしー

セックスがまだ下手糞だったころの話をしようか。

学校帰りには毎日本屋に寄って
ゲーム週刊誌から現代小説まで立ち読みした。
田舎だったあの町には
本屋くらいしか暇を潰す場所がなかった。
町に一軒しか無い本屋に
同じ制服を着た学生が皆集まった。
皆同じようにお金が無かったので
いつも本を買うわけではなく立ち読みをしていた。

その本屋の店長は中村さん、と云った。
名札に「店長 中村」と書いてあったのでそれが分かった。
立ち読みする僕らを叱るわけでもなく
レジ横で長い髪をひとくくりにし
黒縁の眼鏡をすこし皺の出来始めた手で押し上げながら
新書サイズの小説を読んでいた。いつも。


中村さんは結婚しているのか、という話になった。
その話を持ちかけてきたのは、ワルの古谷くんだった。
「他校のやつにケンカ売られたら俺に言えや」が口癖で
でもちっとも強そうじゃなかった古谷くんは、
下劣た声でにやけながらこう言った。

「中村さんは処女だぜ」

じゃんけんで負けたほうが
性風俗雑誌をレジに持っていって
反応を覗おうという話になった。

じゃんけんでは古谷くんがパーを出して
僕がグーを出した。
僕の負けだ。

二人で周りを伺いながら
本屋の端にある性風俗コーナーに行き、
黄色のビニルで十字に結んである
漫画モノの性風俗雑誌を手に取った。
表紙では童顔で巨乳のメイドが悶えていた。
古谷くんは言った。

「買ったら俺にくれな」

レジに持っていって、黙ってカウンターに差し出した。
中村さんは、読んでいた小説にしおりを挟み、
ゆっくりと眼鏡の真ん中を人差し指で押し上げると
「618円です」と言った。

そこまでは全然なんでもなかった。
中村さんが処女であるかどうかとか、
それを確かめようとすることが最低であるかどうかとか、
思いをめぐらすには馬鹿だった。
だからただ、古谷くんの言ったことを淡々とやったんだ。

けれど、中村さんのすこししゃがれた声を聞くと、
とたんに顔が赤くなった。
財布を取り出せなかった。
無理にポケットから財布を引っこ抜くと、
手につかずに床に落ちた。

拾おうとすると、ごつい手が先にそれを拾った。
見ると、生活指導の畠山先生が僕を睨んでいた。

弾けるように外に出た。
自転車の鍵穴に強引にカギを捻じ込み
引きずるように乗り出し全開で走った。
古谷くんが大声で笑いながら自転車で付いてきた。
信号が赤に変わったけれど、ブレーキひとつかけず突っ込んだ。
耳障りの悪い、クラクションが響いた。


数日経っても、生活指導の畠山先生に呼び出されることはなかった。
他にすることもなかったので、やっぱり本屋に行った。
引き戸を開けると、中村さんがこちらに気づいて近づいてきた。

「財布。」

中村さんはそう言って、僕が落とした財布を差し出した。
僕が受け取ると中村さんはすぐに振り向き、
いつもと同じようにレジに座って小説を開いた。

僕は聞いた。

「何、読んでるんですか。」

中村さんは答えた。

「三島由紀夫の潮騒。」

数秒の沈黙の後、中村さんはまた小説に目を落とし、続きを読み始めた。
僕はゆっくり引き戸を開けると、確かめるように自転車に乗り、
全力で漕ぎ出した。

高まる心臓を押さえ切れなかった。
中村さんに聞いた!
三島由紀夫の潮騒!三島由紀夫の潮騒!
中村さんと、話をした!

また赤信号に変わったけれど、ブレーキなんかしたくなかった。
いちだん強くペダルを踏むと、横断歩道を高速で突っ切った。
夕焼けの町に響くクラクションが、ファンファーレに聞こえた。


家の近くの公園で、古谷くんがつまんなそうに、
タバコをふかしていた。

「俺、セックスがしてー・・」

僕は言った。

「セックスが、したい!」

古谷くんが目をまあるくし、
その後タバコを落とし踏みにじると、
「声、でけえよ」といって軽く笑った。

「プレハブ小屋でビニ本拾ったからさ、今から読もうぜ」
古谷くんがそう言った。
うなずくと、古谷くんを自転車の後ろに乗せ、
坂の上にある古谷くんの家に向かった。
立ちこぎで力いっぱい踏みしめると、足がペダルからスリップしてこけた。

アスファルトの坂の途中、大の字になって空を見た。
勃起して盛り上がった学生服の向う、
妙に湿り気のある満月が昇ってきた。


初出:投稿詩 on PQs・3回戦
http://www.yuracom.com/ps/ps.html


自由詩 満月 Copyright にゃんしー 2009-11-10 23:45:44
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