「落陽」(3/3)
月乃助
気象台横のごつごつと張り出した岩の上に、よじ登るようにして立ちあがれば、海峡と町の景色が突然足の下にひろがる。そしてその先、海峡の向こうには、白い岩山の山脈がゆったりと雲の下に姿を見せ広々としている。
見下ろせば、目の下の海岸線は、大きなスプーンを寝かしたような半島が海峡に突き出ている。そこは、この町に初めて白人達が訪れてきた時に船を泊めて上陸をした場所。そんな話を思い出す。
夏のまぶしいほどに輝く海峡や陽をきらめかす山脈は、今のこの季節には見られはしなかったが、
「へえ、すごいじゃない。きれいなところだね」そう、彼は景色に心を奪われてしまったのか、娘の顔を見ずに言った。その言葉は娘をほっとさせる。
「ここはね、私が町の中で一番好きなところ、庭園、ダウンタウン、インナー・ハーバーそんなところより、どこよりもここが好きなの」
「そう」と、彼は短く答えた。
「そうって、誰にも教えたことなかったんだから」娘は、彼にもっと感謝してもらいたかった。そこは、彼女の秘密の場所。友達も連れてきたことがなかった特別の場所なのだから。すると彼は、その景色に向かったまま話しかけた。
「俺、日本で待っているから、お前のこと」
「……え」すぐには返す言葉が出てこなかった。
心臓がドキドキし始める、彼に初めて手を握られた時と同じ。
彼の手は娘の手のすぐ横で、燃え残った炭火のように熱く感じる。その手が、わずかに娘の小指に触れたかと思うと、しっかりと娘の手を握り締めた。
彼が帰国してしまったらもう会えない。彼のことは忘れないといけないと思っていた娘に、その言葉が心の中にゆっくりと沈んで行き、貝殻が海の砂に静かに埋もれるように、心の底にぽつんと落とされた。四年の数字が現れて消えた。そんなに長くの間、待っていてくれるのだろうか?信じていいの、本当に?そんなことができるの?と、問いただす言葉が口に上りそうになる。でも、そんな言葉を言わせたくないのか、彼の温かな唇が娘の口をふさいだ。
娘は、その唇がもう一度、待っているからと動くのを、見つめていた。
何も言えずに、それでも子供のように娘は頷くと、ほほに涙が伝った。
四年の時を待ってくれると言う、それは春夏秋冬を四回繰り返さないとやってこない十六の季節の先の話。でも、その言葉に嘘の響きは少しもなかった。わずかばかりも。それだから、娘は信じてみようかと、今はもう景色に目を戻している彼の横顔を見た。
秋の町は、建物の間の木々が色付き、黄色、紅、そしてオレンジと鮮やかな色に染まっている。それでいてどこか賑やかさなどない落ち着いた雰囲気があった。
娘は、やっと思い出したのか、焼いてきたクッキーをバッグから出すと、彼に一つ差し出した。そして自分も一つ口にしてみる。彼の唇の味が消えてしまうと、ほんの少し後悔しながら。
彼の唇の味が残っているのか、焼いたクッキーはいつもよりも甘い味がする。
西の重なる雲の、わずかに切れたオレンジ色の雲間に、娘の思いが通じたのかうっすらと紅の落陽が姿を見せた。
赤い雲が広がり、光が濡れた足元を照らした。
それを見つめる彼の瞳も赤く輝き、娘のほほもまた、紅く染まった。(了)