結婚詐欺
ふくだわらまんじゅうろう

 結婚が詐欺ならば、すべての結婚はむしろ、報われるのではないだろうか。
 この胸の病が癒える前にこの問題をパソコンデスクの上からCDラックの上へと上梓しなければならないことは火を見るより明らかなのだが、その勇気が果たして君にはあると言えるのか?
 たとえば、君にまったく結婚する気がなかったとする。そして君にはお付き合いしている女性がいる。性的な肉体関係もある。ある意味においては性的でない肉体関係すらある。君はその女性を愛している。その女性も君を愛している。(しかし「愛」ほど曖昧な言葉があるだろうか? この単語の真意を野放しにしたまま我々はどこに辿り着けるというのだ! 「愛」を定義するのはあまりにも難しい話になってしまうため、一旦この単語を放棄しておきながら君がその女性をどれ程までに愛していたのかを表現しなければならない。そう、たとえば、君はその女性と性交渉を行う際に、陰唇を丁寧にその舌先でなぞってあげることを忘れない、たとえその女性が行為の前にシャワーでその複雑すぎる肉の襞を洗うことを忘れていたとしてもだ。そしてその女性もまた、君の陰茎を根元から先までいとおしむようにねっとりと舐める。太古の深海に棲む軟体動物のように妖しくやさしく君のいきり勃つ海綿体の表面表皮を這う。真っ赤に怒張する君の粘膜をやさしくその口唇で包み、自らの欲情が主張するその唾液と君の本能的且つ煩悩的反射がもたらす甘い粘液とを絡めるように、滑らかに、そう、必要以上に滑らかに、カリ首の段差を往き来する。そしてその器用な舌先で君の裏側をなぞり、表皮と粘膜の境界を辿り、しまいには君の粘液ほとばしる鈴口に分け入ろうとする。
 そして実際に君の怒張した陰茎がその女性のあたたかく潤んだ陰唇を潜り抜けるとき、女は軽く声を上げる。君はたまらずその奥の奥まで挿しいれて、もうこれ以上深く腰が沈まないところで一度立ち止まるのだけれど、たまらなくなったのは果たして君自身なのか、それとも君の脳幹だとか脳髄だとかA10神経だとかそういったものの正体がたまらなくなっての衝動なのか、どちらがどうだと言うのだ、それが我々にははっきりとわかると言えるのか? いや、この疑問にまで深く寄り道している場合ではないよ、いよいよ君はゆっくりと動かし始めるのだから。いや、君が動かし始めるのだろうか?それとも君こそが動かされているのか? 君をしてその腰を動かしめているのは君の本能だとか煩悩だとか生存の生殖の衝動だとか、いやいや、むしろその女性がそもそも、君の視覚から聴覚、嗅覚、味覚、触覚、性格までも誘惑し、挑発し、挑戦すらしているからであって、究極的に君を動かしつつあるのは、その使役の大元の招待はその女なのではないのか?
 それを意図的に許している、あるいは無意識的にも許している君のその心の有り様こそが君の「愛云々」を証言してくれる証拠物件なのではなかろうか? そして君のその怒張した何を受け入れることを肯定したその女の選択こそが、また……いや、よそう。これくらいにしておこうじゃないか、今のところは…)
 結婚に話題を戻すべきである。
 それでも君には結婚をする気など毛頭ないのである。そもそものはじめから結婚というものに対して、家庭を持つということに対して、奥さんを貰って子供を産んで育てるということに対して、その周辺にマイホームだとかマイカーだとか家族旅行だとか子供の運動会だとかなんだかんだとかに対して、君は微塵も興味を持てないし、想像してみようにもその手掛かりというものがない。
 自分の生い立ちをその手掛かりにしようと思ってみたところで、君は何不自由のない中流家庭に生まれ育ち、両親の愛情に守られて今まで育ちきたというよりはむしろ、かの高度経済成長の恩恵の下に栄養価の高い食生活に恵まれ、情報化社会の荒波の中でその知識を逞しくされ、学歴偏重競争社会の堡塁から堡塁へと鍛え上げられて今がある。この先どこまで行くのやらと問うてみたところで、この狂った社会の奔流に押し流されるがままに流されて行く以外に、大した革命だとか投石だとかの意志も歴史に挫かれたまま、その女性との性交渉においても一度たりとてその例外なくコンドームを正しく使用しているのは、ただその女に対する愛情ゆえとは言い難いものであるということを君は自覚している。
 しかるに…
 もしも、そんな自分が女に対して「結婚してくれ」などと発言するのは、その発言自体詐欺であると言わずして何を詐欺だと言うべきか。
 そして女にとっても、結婚とは何か。
 君がその女性に対して行う「結婚の約束」とはいかなるものだと考えようか。
 たとえば君がその女性に結婚を約束する。それはすなわち、その女を自分の妻とする約束に他ならない。と同時に、その女を娶り、日々の糧を保障し、着飾る衣服から装飾品、美容院からネイルサロン、ダイエットグッズから買い物用の専用車、趣味の手芸やらレッスン代、忘れてならない結婚指輪、さらには必要以上の間取りの家屋まで保障しますよと約束することに他ならない。それだけ保障するならば、いったい合計いくらの金額になることだろう。そんな計算はとんと苦手だが、相当な金額になることはわかりきっている。その金額には遠く及ばないのだからと言って、二人の結婚資金にと、数百万円借りることはできないだろうか、などと持ちかけるのが結婚詐欺の本物だ。
 しかし、その約束を果たしたとして、それがはたして詐欺に当たらないと言えるだろうか。
 君はその女性と結婚をした。君は浮気をしなかった。子供もちゃんと二人つくり、きちんとした教育を受けさせ、育て上げた。出世し、給料をせっせと稼ぎ、家を建て、新車を買い替え、日曜日にはディズニーランド、夏休みには海水浴、ゴールデンウィークには海外旅行にまで連れてった。結婚記念日を忘れたこともない。子供が寝静まったらちゃんと性行為に励み、疲れてどうしようもないときにはその旨しっかりと伝えて納得していただいた。子供たちの反抗期にも辛抱強く耐え、十分な学資と就職のコネクションまで用意した。妻が外で働きたがったときも反対せず、むしろ応援してやった。そんな妻に言い寄る男があったとする。そして妻もなんとなくその気になったりする。偶然とか酩酊とか身体の芯の疼きだとかなんだとかのせいで男はまんまとその妻の味を知ったとする。それでも君はそれを許し、なかったことにするからと妻を諭し、すべてを穏便に収束させたとする。
 君がもし、そこまでやりおうせたとして、それでも君は詐欺を働かなかったと言い切れるだろうか?
 誰にもそれは言い切れないのだ。結婚など、所詮、形式でしかないのだ。儀式ですらなく、それは人間社会の捏造した制度のひとつにしかすぎないのだ。この真実に、君は目を逸らしてはならない。それは制度であり、法律でしかないのだ。自然界にこのような法則などなく、さらにはこれがはたして「我々人間にとって適したやり方であるのかどうか」もはっきりとはわからないのだよ。
 約束したほうがいいのか?
 約束をはたしたほうがいいのか?
 詐欺を働かないほうがいいのか?
 嘘をつかないほうがいいのか?
 これらの問いに対して誰が単純な回答をなし得るだろう。

 私はむしろ、結婚はすべて詐欺であるべきだと主張する。
 私は君を騙し、君は私を騙すだろう。君はその女を騙し、女は君を騙すだろう。騙し騙される虚実の最中で、それはあたかも陰茎が膣門の参道を何度も何度も往き来するように、男の直線運動が女の螺旋運動を誘発して、原子力発電機でさえも起こし得ないほどの官能的エネルギーの坩堝で、騙している君が騙され、騙されている女が騙し、上になっているのか下になっているのか、はたまた前になっているのか後ろになっているのか、さらには男になっているのか女になっているのか、君が私なのか私が君なのか、天が地で地が天なのか、中が外で外が中なのか、すべての境界面がわからなくなる。
 そして騙されることさえも受け入れてしまうという愚の境地に佇むとき君は、君がほんとうに愛する存在を目の当たりにすることになるのだろう。そうであると信じることこそが、騙し騙される地平の向こうにあるはずの彼岸なのではないだろうか。




散文(批評随筆小説等) 結婚詐欺 Copyright ふくだわらまんじゅうろう 2009-11-03 13:29:31
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