夢国記
日雇いくん◆hiyatQ6h0c


 すげえやだ、と女は言った。
 通り掛かりの声だ。駅から家路を急ぐ間際、改札を出た後すぐに、ほど近い後ろの方角からそれは聞こえた。年頃の声らしい太いアルトだったが妙に甲高く感じた。振りかえる気もないではなかったが、やめておいた。最寄駅には改札口が一ヶ所しかないので、家へ帰るには、線路を伝って踏み切りを通るか地下道を通って線路をまたぐかのどちらかだったが、左ひざを傷めて久しい身には、規則的に鳴る鐘の音を聞きながらただ待つがよかった。進む方向が一緒なためか、不機嫌なアルトが追い掛けてくるのがわかったが、携帯電話で話しているのか、応じる声はなかった。強制的に聞かされている言葉はいかにも若者らしいくだけ方で、しかも早口だったので、日本語ではないものを聞かされているような気分になったが、それでもおぼろげながら内容がわかるので、そこが難儀だった。付き合っているらしい者とのケンカのようで、自分の都合を最大限押し出す、自我肥大まるだしの下品なものだったから、家へ帰り疲れを癒そうという身にはまったくたまらなかった。それでも、歩きながら口に力を入れて耐えているうちに、踏み切りに着いた。遮断機は予定調和のように降りていたが、規則的に鳴る警報が怪物の叫び声を消してくれるので、少し安堵感を覚えた。逃げるように警報に集中した。
 こんな事を思い出した。

 一年ほど前にここで人身事故があった。たまたま休みだった時で、運悪く現場に居合わせた。何があったかは知らないが、急行が停まらない駅なので急行電車に向かってホームから飛び出し、そのまま運転室へタックルを決め玉砕したようで、踏み切りを少し越えたところに停車した車両の前面の車窓に、細い体が干された洗濯物のように折り曲がり、腰から下を力なくぶら下げていた。後で新聞報道を見ると30代後半の男性ということだったが、白っぽい服にジーンズ姿の身体が細かったので、見た時は女性のように思えた。車両が留まっている間、踏み切りの規則的な警報は途切れずにそのあたりを包み、見に行ってこい、見に行って来い、と近所の不動産屋の親父が近くにいた学校帰りらしい子供たちをはやし立てていた。最初怒りを覚えたが、すぐに納得した。子供のうちに死を身近に感じておいて損をすることはない。血や肉などが派手に飛び散っているわけでもなかったから、それほどのトラウマにもならないだろう。
 そのうちに人も集まりだし、やがて石垣のようになった。何かの物売りでも来そうなほどだった。不謹慎な見物客はああでもないこうでもないと、井戸端会議めいたことをあちこちで始め出した。見る前に、踏み切り近くのスーパーで半額になった焼豚を買っていたが、見た途端すっかり食べる気がしなくなり、忌み嫌うべき禍々しいものにしか見えなくなったので返品しに戻った。事情を話すと、普通こういうものは返品は受けないんですがそれなら仕方がないですねというようなことを言いながら応じ、こういうわけなので金はいらないと言ったが、返してくれた。店を出て踏み切りの方を見ると、まだ処理が終わってないようで、足止めをくらった自動車の列が長たらしく続き、人だかりは勢いを増して山の風景を作っていた。
 日常ではなかった。
 夢の国が、現れたのだ。
 醒めてほしかった。足を早め家路を急いだ。

 ふと気づくと、後ろからの怒鳴り声とともに映像が戻ってきた。警報はやんでいた。怒鳴り声の主に謝意を示して歩き出すと、日本語ではないような日本語使いの声はどこかに消えていた。
 早く風呂に入りたい。そう思った。
 


散文(批評随筆小説等) 夢国記 Copyright 日雇いくん◆hiyatQ6h0c 2009-10-27 17:00:01
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