濁流
within

   

 八月、台風九号は二十二名の命を奪い、太平洋の北洋上で一陣の風となった。嵩の増した泥の粒子を束ねた濁流が財田川を下っていた。よく水神として龍や蛇が奉られるのがわかる気がした。うねる濁流はまるで命をもった一匹の神獣のようで、障れば人など、ひとたまりもなく飲み込んでいくような、恐ろしさがあった。
 中洲は影もなく、平生の清流が嘘のように、荒々しく、鋭い爪で抉り取った枝木が、飲み込まれ、吐き出されしながら、流れていた。見上げると空は台風一過の快晴で、もう嵐は過去のものとなり、人々はまた忙しい日常に戻され、慌しさに埋没していた。目に映える空の青さと茶色く濁った川がやけに不釣合いで、もしかしたらこんな日に、川底に沈んだ魂の澱が清められるのかもしれない。普段、ゆっくりと崩れ落ちていく砂の城を、濁流は、日本海の荒波のように大きくひと口で胃に喰らい込み、命は一瞬で途絶えた。
 そして、失われていくことを思い知らされた。今年の春、母方の祖父と祖母が相次いで逝去した。祖父も祖母も旧三豊郡山本町の一隅で生まれた。祖父は幼少の頃、体が弱かったようだが、生まれもった剛健な精神で、三豊の自然のようにたくましく育った。祖母の幼い頃については詳しく知らされていないが、神田に実家があるらしく、それも曖昧で定かではないが、僕に語ることもなく、僕が訊くこともなかった。しかしその神田の家に一度だけ訪れたことがあった。まだ小学校の低学年で、母親に連れられるまま訪れたのだが、家の中はしんとしていて、ベッドの上で眠る年老いた「おじいちゃん」と呼ばれる末期を迎えようとしている老人は、父方の祖父でも母方の祖父でもなく、傍にいたおばさんに「手ェ握ってあげんかいな」と促され、何の思いもなく無心に触った皺だらけのやつれて細くなった指は、僕の手よりも温かく、握り返されることはなかったが、まだ残る生の灯火を感じたのを今でも覚えている。
 それからどのくらい「おじいちゃん」が生きたのか、いつ逝去したのか全く報せが僕の耳に入ってこなかったせいもあり、その只一度きりの「おじいちゃん」には死の実感がない。

 祖父は日本酒と煙草が好きで、いつもオレンジ色をした「echo」がちゃぶ台の横にある小さな棚の中に置かれていた。機嫌の良いときには、紫煙で輪っかを作り、幼かった僕は無邪気に喜び、あこがれた。
 喘息を持っていたせいで体の弱かった僕は、夏になるとよく発作を起こし、深夜、親に車で病院に担ぎ込まれたのであるが、ひどい時は、そのまま入院となった。父親は仕事で、母親は七人家族の家事があり、幼かった僕は病院で少し淋しい思いをしたのだが、祖父と祖母がかわるがわる見舞いに来てくれた。発作の鎮まっている時は、元気なもので、病院の売店に連れて行ってもらうと「怪獣大百科」を買ってもらい、祖父母が帰った後、一人残された病室で、消灯になるまで、むさぼるように読んだ。
 そんな祖父母の家に行くのは、とても楽しみで、いくとご馳走で迎えてくれ、祖母は「おじいちゃんには内緒やで」と小遣いを握らせてくれた。決して怒ることのない優しい祖母を裏切るようなことはできないと思っていたが、どうだったのだろうと今になって思う。
 また祖母は、こっそりとまだ小学生だった僕に、体にいいからと皆に知れぬよう赤玉ワインを飲ませてくれた。まだ酒の味などわからない僕は、少し大人の世界を覗き見てるようで興奮し、決して美味しくはない酒を度々せがんだ。酔いの心地よさを知らぬ子供は、自分の体が妙に熱を持ち、気だるさを覚えたのだが、これはきっと血の巡りがよくなったせいだと思い込み、コップの底にわずかばかり注がれた安酒を、ちびりちびりと惜しむように飲んだ。
 夏には蚊帳を吊り、祖父と祖母の間に陣取った僕は、祖父の創作した昔話に耳をそばだてた。それは、桃太郎を模した人参太郎だったり大根太郎だったりしたのだが、機嫌よく話す祖父の語り口にひどく安らぎ、いつもなら夜、眠りにつくのが苦手な子供だった僕も、いつの間にか眠り込んでいた。
たまに親が迎えに来れないときには、祖父のカブの荷台に跨り、大きすぎるぶかぶかのヘルメットを被り、風の流れる心地よさを知った。
高校受験を迎える頃には、祖父から面接試験のイロハを授かった。
「まずはシャンと背筋を伸ばして、はっきりと大きな声で『よろしくお願いします』と言うんやぞ。しっかり面接官の目ェ見てな。目がうわついとったら、この子は心ここにあらず、すぐに見抜かれるきんの」
 と、祖父の教えがあってか、高校受験は無事に通過することができた。しかし、その頃から祖父母の家から少し遠ざかった。きっと思春期の言われぬ気恥ずかしさからだったのだろう。
 再び、祖父母の家に行くようになったのは、大学生の時、体調を崩し、帰郷していた時のことだった。もうすっかり勉学への欲求を失っていた僕は、祖父母に引け目を感じつつも、幼い頃から無条件に受け入れてくれた祖父母の顔が見たくなったのだ。
 それから母が祖父母の家へ用事がある度に、金魚の糞のように後ろに付いて訪ねるようになった。そんな僕に祖母は
「おうおう、顔を忘れよったが」
 と、お茶を出してくれ、炬燵に座っている祖父は、決まって
「まあ座れや」
 と言って、僕の目を覗き込むように顔を見た。所在無い僕が、隅のほうで座っていると
「そなんところにおらんと、炬燵に入れ、入れ」
 と手招きした。
 その頃に聞かされたのだが、祖父は原爆の落とされたヒロシマの町に、投下された翌日、訪れたそうである。詳しくは語らなかったが、焼け焦げ爛れた放射能に侵された街を歩き、もしかしたら祖父は被爆していたのかもしれない。語られはしないが、あの時のヒロシマにいたという事実に、僕の心はじっと動けなくなった。
 祖母も戦後の混乱の中、家計を支えた苦労を語った。
「汽車に乗ってな、闇市まで卵買いに行ったんやで。周りに見つからんよに、風呂敷で隠してな。そらあもう、おとろしかったんやぞ」
 闇市の話は何度も聞かされた。普段、優しく気の細かい祖母が殺気あふれる闇市の人の波にもまれ、列車に揺られている姿を想像すると痛々しくもあり、皆が生き残ることに必死だった時代の空気の残滓を吸っているような思持ちになった。

 元気だった祖父も晩年には膀胱癌を患い、不自由な生活を強いられ、冬も夏も炬燵に足を突っ込み、横になってばかりの生活で、僕も時折母の作ったおかずを持って訪ねた。
 祖母も股関節を痛め、立ち上げることも儘ならなくなり、祖父との二人の生活では、介助することもできず、結局は財田にある老人ホームに入居せざるを得なくなった。
 母はそんな祖父母の世話のため、ちょくちょく用事を頼まれると車で走った。僕は時折、顔を見に行く程度で、これといって何もしてあげることができなかった。
 ベッドの上で、
「ばあちゃんは何も悪いことしとらんのに、何でこんな辛い目にあわないかんのやろのお」
 と言う祖母に、僕は何も言葉をかけてあげることができなかった。
 そのとき、老いるということは、喪失の繰り返しで、新たな苦しみをを受け入れていくしかないのかもしれないと、ぼんやり思った。



 今年の夏、お盆に、祖父と祖母の眠る墓に両親と兄と幼い姪と甥と弟とで墓参りに行った。そこにはもう死の気配はなく、うだるような暑さで、誰かが供えてくれていた花も生気を失い、萎れていた。甥が
「ひいじいちゃんはどこなん? 」
 と尋ね、兄が
「お墓の中におるんや」
 と説明しても合点のいかない様子で、行くあてのない線香を手にしながら、狭い墓地を物珍しそうに姪の後ろに付いて歩き回っていた。
 祖父の死因は肺炎だった。病院から電話がかかり、駈け付けたときには、もう意識がなく、口に酸素マスクをあてがわれ、一呼吸一呼吸、喘ぎながら体全体の力を振り絞るように呼吸していた。そして、三十分もしただろうか、心臓は止まり呼吸も静かに已んだ。最後は随分と苦しんだ。しかしその姿は、最後まで闘う、困難に立ち向かう祖父の生き様そのものだった。
 それから二週間ほどして祖母も、肺の静脈が破れ、血を吐いて急逝した。深夜二時の出来事だった。ベッドには吐血した血の斑点が生々しくあったが、心臓マッサージを受ける祖母の顔はとても穏やかだった。最後の最後で苦しまずに終わりを迎えることができたのは、生前、真面目に生きることを信条とした、純朴な精神に対する神の恩寵のように思われた。
 台風の去った後、残された僕は濁流の中にみなぎる生の気配を感じていた。それは、きよらかな清流ではなく、轟々と流れる泥流のようなもので、死の残していった塵埃は全て削ぎとられてゆく。いつか、僕も、この流れの中に入るのだろうと此岸に思った。


散文(批評随筆小説等) 濁流 Copyright within 2009-10-26 10:35:00
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