「波の声をきいて」(7)
月乃助
白いタイルが弾く光の中で海獣は、毛皮に包まれたくたびれたピローに見えた。
他にどこにも連れて行くあてなどなかった。
娘のHiromiは、Sayoがアザラシを背負ってアパートの部屋に戻ってきても、さして驚くことがなく、疲れ果てた様子の母親を手伝ってアザラシをバス・タブの中に入れた。
Sayoは、アパートの古参な住民のミセス・ウィルグリムに、建物への玄関に通じる階段を下がってきたところで顔をあわせたが、説明も鬱陶しく、何も言葉を交わさなかった。
ただ、半裸に得体のしれない生き物を背負った女の姿を目にし絶句したような老婆の顔に、マネージャーに何か言われそうだと、ノー・ペットをうたっているこのアパートには、どんな動物のもちこみも許されなかったはず、そんなことを思い出していた。
Hiromiは母親が蛇かイグアナかダチョウか、そんなものを部屋に連れてきてもきっと何も言わずにいるのかもしれない。そんなことを平気でするそんな種類の母親だと、娘はSayoのことを評価か、判断しているらしかった。
「どうしよう、獣医のところに連れていかないと、だめかな」
Sayoは、そのアザラシがどうしてこのアパートに来ることになったのかを説明するよりも、最初にそんなことをHiromiに言っていた。
「そうね、ずいぶん弱ってるみたい」
「とにかくイエロー・ページで探してみるか」
「それで、なんていう名前なの?」
Hiromiはいまだにブラジャー姿のままの母親に、新しいペットの名前を聞くように彼女の顔を見つめた。
Sayoは娘の質問に説明が面倒で、ただ首をふると、バスルームから出て電話帳を探し始めた。Hiromiは、腹ばいになったアザラシのすぐ横にうずくまり、その背を優しくなで始めていた。バス・タブの横にくしゃくしゃになった白いブラウスは、洗濯してももう使えそうにない。
Sayoは三軒、獣医の名前を適当に選んで電話をしてみたが、どこも、アンサリングにメッセージを残すようにいうだけで、週末の治療はしていなかった。ペットを飼っているオーナーは、イマージェンシーの時はどうするのか、動物専用の緊急病院がこの町にあるのだろうかとSayoはペットを飼ったこともなく、ただ、途方に暮れる思いだった。
海峡には人の暮らしのごく近くにたくさんの生き物達がいて、それは、Sayoの生活圏の縁取りをするような存在だった。
アザラシもそのひとつだし、シャチの群れもいたし、時にグレー・ウェールのような鯨も大洋から海峡に入って来た。ヨット・ハーバーの近くの森に行けば、リスや鹿が始終出てきたし、海鳥だけだなくハミングバードから白頭鷲まで小さな鳥から大きな鳥まで、雑多な鳥達も目にできた。
男がいなくなったら娘が生まれ、寂しさを癒すために老人達が子犬のようなペットを飼うようなことをする必要もなかった。
「マム、多分、大丈夫だよ。あちこち痛がっていて、前ヒレの左側の方が動かすととても痛いって、でも、骨折している訳じゃないみたい。もし折れてたら、動かすことだってできないでしょ。とにかく、今は休ませるのが一番だと思う」
Hiromiはそんなことをバス・ルームから出てくるとSayoに言った。
それは、まるでアザラシの気持ちか、言葉が分かるような自信のある物言いなのに、Sayoは娘の顔をしばらく何も言わずに見ていた。海の声を聞く女の娘。そんなことらしい。
とにかく、それには子供ながらも真実の響きがあったので、Sayoはほっとして娘の言うことを信じてみることにした。小さな頃には、アザラシ達と一緒に遊び、その群れの中で平気で昼寝をしていた娘の姿を思い出していた。いつもアザラシのヒレの爪に引っ掛かれ、傷だらけになっていたのに、泣くこともなかった。
「バス・タブには、水を入れておいた方が良いかな、ほら、いつも海の中にいるじゃない」
「魚じゃないから、大丈夫だと思う。もし、そうして欲しかったらそう言うかも。それに、寝るときはいつも岩の上でしょ」
「そうね。何か食べる?」
娘は、それがアザラシのことなのか、それとも、夕食のことか少し考え、
「あたしお腹がすいた」そう言って、まだ、裸のような格好の母親にその時になってやっと気付いたように、Sayoのまだ張りを失わない胸のふくらみの大きさを測るような目をその胸に落としていた。
Sayoはアザラシの方と思いながら、買いそびれたハリバットの代わりに、今晩はどうしようか、ほとんど空っぽの冷蔵庫を思い出し、小さくため息をついていた。腰も、肩もまだ痛いし、足はくたくただった。
面倒だから、デリバリーでも頼もうか。
そして、食べ残しを犬か何かにやるように、アザラシに与える光景を思い浮かべ、アザラシも人の食べる物を食べるのだろうかと気付き、そんなことを考えている自分がおかしくなり、口元だけで笑っていた。
それに気づいた娘のHiromiは、ただ、なにこんな時にと怪訝な顔を母親に向けた。
(つづく)