宗教のための宗教とは(4)
生田 稔

宗教のための宗教とは(4)

私が宗教にかかわりだしてからはもう 永くなる。人生の3分の2は費やした。主としてキリスト教とバイブルを研究した。キリスト教はイエスによってはじめられユダヤ教の母体の上に構築された。イエスが活動したのは3年と半ぐらいといわれており。旧約聖書の預言の成就として、ひそかに、ある人たちには華々しく誕生した。
 イエス・キリストについては新約聖書マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの各々の伝記を見ていただきたい。世には多くの宗教があるが、そのいずれも古いものを守り、そこから新しいものを見出すことはかなり難しい。私は確定したかのごときバイブル解釈や宗教慣習の前方に新しいしかし古い教義から出てきた。新しい崇拝新しい崇拝のための儀式を神より啓示され、神様の前でそれについて論じ、発表する許可を得たので。そうさせていただくこととする。
 キリスト教の中心思想といえば、あるいはそのテーマとは、キリスト教を広く一般化すると、万民の救済である。聖書黙示録の結語は「誰でも望むものは命の水を値なくして受けなさい」黙示録二十二の十七、である。
 死んだ者は復活の報いを受け、生きてキリストの再臨に出会う者は、そのまま生きて死ぬことなく地上に生きることである。そしてわたしは、このイエスが現れる時、人々に取り決める崇拝と祝いの儀式を、そのあらましだけをお伝えするにとどめる。
 イエスの最後の晩餐といわれるパンと葡萄酒による弟子たちとの契約は、再臨によって更新されます。変わるのではなく、衣をつけて新しくなるのである。
 今までのパンは苦しみのパンと言われ、救いのためのくるしい努力の生活を誓うパンであり。罪を表すぱん種は入っていなかった。しかし再臨のパンは新しいパン種を入れる。新しいパン種は、古いパン種と同じように象徴的で、パンの表す罪のない新しいパン種の入った人の体を意味する。そして同じように次に受ける葡萄酒も新しい完全な人間にふさわしい愛を表す蜂蜜が入る。このパンと葡萄酒にあずかる者は楽園となった地上で苦しい生活ではなく、楽しい幸福な生活を享受する。
 そしてもうひとつ、取り決めがある。イエスは晩餐のすんだあくる日、購いとして刑柱につかれたが、このことと多くの預言者や殉教者や正義のために犠牲となって死んでいった人々の苦しみをいやすための花の燔祭壇である。参集する信者は各々一束の花を持参して壇上に捧げる。壇上の花は祭りの最後に、香ばしい薫として燃料をかけて燃やすのである。祭日の日は主と相談のうえ。五月の5日から7日までの三日間とし。これは七まわりの日あるいはペンテコステの祭りに準ずるものである。以上はイエスとエホバのみ前にとり決められた神聖な祭りのあらましである。さらに祭りに参加することには、何の資格も問わないとの主のお言葉である。



散文(批評随筆小説等) 宗教のための宗教とは(4) Copyright 生田 稔 2009-10-20 10:42:54
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