「あざらしの島」(1/3)
月乃助

いつの間にか海峡と陸を隔てる水平線は確かさを失い、靄の帯を海に広げていた。
 海峡の向こうには岩肌をみせる山脈と、その手前には昔は燈台守が住んでいたという岩礁に見まがう小さな島があった。
 今、その海峡の島には女がひとり、娘と住んでいる。
 寝室一つの赤い屋根。木造の家は背の高い灯台を別にすれば唯一島にある建物だった。
 サッカーのフィールド三面ほどの大きさと、女はその島の大きさを聞かれると言うことにしている。それは、島の端にいる娘の姿を見て、それくらいの広さだと思うからで、正確なところその島がどれくらいの大きさがあるのか、女は知りようもなかった。
 潮が満ちれば小さく、潮が干けば大きくなる島だった。
 磯のような島だったが、女の家のすぐ横には小さな庭とリンゴの木が一本あった。
 その島に女が来るまで、そこは岩礁と苔と雑草の他には何もない島で、木も一本も生えていなかった。それで、女は考えリンゴの木を一本植えた。女の好物がアップル・パイだったというそんな単純なことだった。
 稚拙な理由が、この島に緑をもたらし、異質の違った色を加えていく。
 夏の庭には、インゲンやタマネギ、キュウリにトマトを植え、それを収穫して食べた。そんな野菜の他にも、茎がバーミチェリほどに細い華奢な花も咲いている。
 女はコロンバインといその花が好きだったので、コロンバインで島をいっぱいにしようと最初に庭に植えてみたのだった。それが、今では、夏のはじめには島の半分を覆う土に咲き乱れるほどになった。そのためにレース模様の白い雑草達は、何も言わずに新たに現れた植民者の、紫の花に侵略され嫌気を見せては小さくしている。
 島は、歩いても十分ほどで一周できる大きさだったが、女はそれがひどく気に入っていた。灯台は今でも残っていたが、随分と前に自動化されており無人になっていたし、そのため島には他に誰も住んでおらず、そこは女の所有する島のように思えた。それがきっと女をその島に住まわせている理由なのに、対岸の町のだれもそんな女の気持ちは知らず、ただ、変わり者のアジア人が住んでいると、そう思っているだけだった。
 女は、もうこの島に6年近く住んでいたが、この小さな島にもいくつかの日課があり、学校へ通う子を朝夕、小さなモーター・ボートで対岸の町のある港まで送り迎えをするのは、その一つだった。
 冬の季節以外には、昼間は庭仕事をし、魚を釣った。サーモンが海峡をあがってくる夏の季節には、疑似餌を貧欲なそれが飲み込むのを目にし、女は愚かな魚だと思いながらそれを釣って子供と一緒に食べたが、その味はいつも愚かさでなく美味なのは不思議といえば不思議だった。島には水道はなかったが電気は来ており、家にはちゃんと電気の大きなオーブンがあった。それで丸ごと焼いて、釣ったもので食べ切れないものは酢漬けにして保存した。
 女には不思議な生活力のようなものがあって、最小限のもので最大限に食料を作り、食べ、見苦しくなく着る物をまとい、節約しながら消耗品を消費して暮らすことが難なくできた。
 暇な時には、磯で陽を浴びてまどろむアザラシ達に、娘に小さな頃したように子守唄を歌ってやった。アザラシ達は、乾いた体を寄せ合うようにその声を聞きながら気持ち良さそうに眠りにつく。女はそれを見ながら、お礼に魚でも持ってくるアザラシが現れるのを期待するのに、それは、どうしてか起こらなかった。
 海岸の岩に座り、光が踊る波の音を聞きながら、その音を解する自分を不思議に思い、時に自分が人魚の血が流れるそんな者の子孫かと思ったりする。それでか、浅瀬に歩みを潜める青サギの姿に、魚の獲り方を学び、今では、簡単に手で泳いでいる魚を漁どることができるようになっていた。
 赤潮でなければ、アサリを食べ、ハンマーとチズルで牡蠣を岩から剥がして焼いた。
 蝶番のすぐ横上の貝柱をくっとナイフで切ると、すぐにあきらめた牡蠣はその固い口を開けた。それでも娘のほうは牡蠣が好きではないので、それは、女のためだけの仕事になり、面倒さが勝ってしまうと、いつまでも牡蠣を食べることをやめてしまったりする。
 ただ、そのなかに真珠があれば、女はそれをとっておき娘にやった。娘は大してありがたがりもせずに、それをコツンと音をさせてジャムの空き瓶にためていが、それを何かに使うのを女は見たことがなかった。
 とれた真珠をネックレスにでもしたら良さそうなのに、女はアクセサリーというものをしなかった。そして、そんなものが必要でないと思うとき、自分が人でありながらすこしアザラシやアシカのような海獣に近いのかと鏡を見つめることがあった。
 子供と暮らしていながら、何度もそれを忘れて、港に夕方子供を迎えに行かずにいて平気でいたりする。そんな時、ヨット・ハーバーのボートやヨットに暮らす誰かが島まで女の子供を送ってくれるのが常だった。
 夏はこの港に暮らし秋になるとボートで南のもっと暖かな町に移る、そんな渡り鳥のような暮らしをしている老いたカップルはたくさんいたし、それに、女の住む港町は、暇を持て余した避暑に来る金持ちがごろごろしていたから、少しのことででも、女と娘の面倒をみてくれるようだった。小学校に通う娘は、待ちぼうけに慣れっ子で、今では、母親がいつまで迎えに来なくても泣かないようになっていた。
 女は、そんな子供の姿をみると、たくましくなっていると思い、きっと、女が消えてしまっても一人で生きていけるだろうと、へんな安心の仕方に胸をなでおろしたりした。
                                     
                                   (つづく)


散文(批評随筆小説等) 「あざらしの島」(1/3) Copyright 月乃助 2009-10-15 11:36:41
notebook Home