あのとき、こころはきずだらけだったのだと。
ホロウ・シカエルボク



混線した電話からほんの一瞬だけ聞こえた名も知らぬ誰かの泣声のように、どう対処していいのか判らない種類の痛みを残してあの人は消えてしまった。テーブルの上のエスプレッソすら、きちんと始末して行かなかった。わたしはずっと前から予感していたはずのそんな出来事に目も当てられないほどに動揺して、まだそこらに漂っているジタンの煙を小瓶に入れてどこかにしまっておこうかなんて考えていた。どんなふうに後片付けにかかればいいのか、まるで上手く思いつかなかった。そんなことはこれまでの人生において、初めてのことだった。考えることなんかない。灰皿と、カップを下げて、灰皿に少し水を落とし、きちんと火を消してから(あの人はきちんと火を消したことがなかった)ゴミ箱に落とし、カップのエスプレッソをシンクに流し、カップを洗い、すすぎ、洗い物受けに伏せる、それだけのことだ。いつも、いつでもやってきたこと。だけどそれがどうしても出来なかった。すべて判っていることなのに、まるでどこか辺境の地でだけ行われている、何の為かも判らない儀式を目にしているみたいにわたしはぼんやりとしていた。そう、言葉すら通じないような、そんな場所。わたしはつい最近テレビで見た、大地に空いた大穴のことを思い出した。その大穴の中には海があり、水はとても青い。まだ若い女性タレントがそれを見て綺麗だと言って泣いていた。わたしはそれを凄く変だと思った。わたしなら泣けない。そんな景色を目にしては決して泣けない。そんな景色の成り立ちはわたしにとってあまりに多くのことを語り過ぎるのだ。わたしはきっとそのすべてを受けとめようとしてひどい混沌の中に落ち、呆然と口を開けて立ちつくしてしまうだろう。そう、ちょうど今この瞬間のように。あれはテレビだ、とわたしは思った。あの女の子はきっと、自分がそう思うとかそんな事とはまるで関係がないところで、綺麗だと言って泣かなければならなかったのだ。感動なんてそんなものだ。綺麗な嘘をつこうとすればわたしたちは涙でも流してみるしかない。わたしは泣けなかった。どうしてだろう?泣いたってかまわなかった。そうすればあの人をもっと困らせることが出来ただろうし、哀れに感じて(例えばエスプレッソを全部飲み終わるくらいまでは)ここにいてくれたかもしれない。だけどわたしにはそれが出来なかった。きっと、わたしはそういうタイプの人間なのだ。阿呆みたいに呆然としてみることで、あらゆる感情のタイミングをずらしてしまうのだ。子供の頃に遊んだ数合わせパズルをわざと間違えるみたいに。思えば昔からそうだった。ああ、そう言えばそうだった、という風にしか自分の心を認識したことがなかった。そうなのだ。わたしはきっと追体験でしか、自分の心を知ることは出来ないのだ、きっと。わたしは気が済むまでテーブルの前に立ちすくんで、次第に薄れてゆくジタンの煙と、エスプレッソの残ったカップを眺めていようと思った。どうせ二度とないのだ。ジタンの煙は。エスプレッソの残ったカップは。例えばジタンの香りがすっかり消えてしまうころには、わたしはすっかり日常を取り戻し、何事もなかったようにテーブルを片付けるかもしれない。それならばもうすこしここでこうしていても何も問題はないじゃないか。ここにはわたしひとりだ。なにをしているのかなんて聞いてくるものはだれもいない。わたしはそのことに気まずさを感じることなんかない。そんな風に少し考えていただけで、ジタンの香りはすっかり消えてしまった。エスプレッソはもうあらゆる力を失っていた。わたしはふらふらと無人になった椅子の対面の椅子に腰を下ろした。どこかの国で大地震があったと、あの人が置いていった下世話な新聞に書いてあった。わたしは地震のことを思った。そして、もしも自分がそこにいたとしたら、呆然としているうちにすべてが終わってしまうのだろうな、なんてことを。




散文(批評随筆小説等) あのとき、こころはきずだらけだったのだと。 Copyright ホロウ・シカエルボク 2009-10-01 00:46:34
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