「詩と詩論」(冬至書房新社 昭和55年発行)を読んで B氏との会話
リーフレイン

昭和55年に冬至書房新社より発行された詩論の本、「詩と詩論」は 、吟遊別冊79年6月刊の「モダニズム50年史」を改題して発行されたものでした。 内容は、昭和3年発行の季刊誌「詩と詩論」で何が成され、その結果何が日本の詩に起きたか? を「詩と詩論」を支えた数人の詩人に論じていただいているものです。 非常に良い本ですので、もし可能だったらぜひ直に読んでいただけるとよいかと。
とはいえ、なにげに古い本なのでつまみ食いのように抜粋しつつ感想をはさんでみようかと思います。

冒頭に春山行夫の「ポエジー論の出発」という文章があります、非常に簡潔に「詩と詩論」当時の意志が伝わってきます。実際にこの文章が書かれたのは昭和53年。春山は昭和3年当時、「詩と詩論」のメインとなって主知運動を展開していた詩人でした。論考は50年を振り返ったという形でしょうか。当時、彼らが何を理想としていたかが非常によくわかります。
ーーーー引用 春山行夫 「ポエジー論の出発」よりーーーー
「詩と詩論」は日本の近代詩に二つの主要な足跡を残した。その第一は若々しいモダニズムで、第二は詩の理論的な解明であった。「詩と詩論」があらわれるまで、「詩」と「詩論」とは別物とみられていて「理論で詩は書けない」という先入観念は絶対的な真実だと思われてた。 事実、他人の詩についてつべこべ口を出したり難癖をつけたりするやからに、「おまえさんは、おまえさんの理論どうりの詩を書いてみたまえ」というと、
彼らはグウの音も出せなかった。ところが、まったく新しい詩の理論をかかげ、その理論どおり詩を書く詩人たちがあらわれたのだから、同時代の詩人たちはびっくり仰天した。これが「詩と詩論」が日本の詩の認識に与えた根本的な革命で、それから日本の詩のモダニズムの歴史がはじまったとみてよい。
詩を書くには詩の理論を知らねばならない。それは当然の原則で、それの第一歩は詩を書くことは。ぽえーむ(いわゆる詩)とポエジー(詩的思考)という二つの次元から成り立っていることを認識することにある。「詩と詩論」が日本ではじめて明確にしたのはポエジー論への主知で、この時代の詩人ほど 自分の書く詩を主知しょうとして、各人がそれぞれのポエジーを追及した時代はかつてなかった。
ーーーーー引用終わりー


この時代に詩と詩論を舞台に活躍した詩人として彼が頭においているのは、西脇順三郎、吉田一穂、上田、滝口、堀辰雄、竹中郁、安西冬衛、北川冬彦、北園克衛、春山行夫、左川ちか、等々です。 現代から見れば、およそあらゆる流派が含まれているような気がするわけですが、、春山はあえて ひとつの観点(主知的に詩を創造する)でくくっています。 単一の観念やムードの集団ではなく、 それぞれのオリジナルな思考で対象を分解し再構成する詩人たちだという定義でした。途中に主知の端的な説明としてベルクソンの「なんらかの法則によって分解し、ついでなんらかの体系によって再構成する能力として特徴づけられる」がひいてあります。
 上の総論にくわえて テクニックの扱いという点で分かりやすく説明してあった段落をさらに引用すると、、
ーーーーー再び引用ーー
おそらく大部分の詩人たちは、テクニックで詩は書けないと、固く信じ、テクニックにつよい抵抗感をいだいているとみてよい。しかしこれは全く見当違いの認識で、ごく特殊な場合を除いて、今日のあらゆる詩は、なんらかのテクニックによって書かれている。問題を自分が詩を書くという「行動」にあてはめて考えてみるとよい。今日の詩人たちがおそらく芸術とは考えていないような 流行歌の作詞家でも、いくつかの条件に適応するための受身のテクニックを使用しているし、 他人の作詞とはちがった効果を出すために、「意識的」にテクニックを考えている流行歌作詞家もいるはずである。テクニックを拒絶する精神は、自分が詩を書く場合のテクニックを自覚せず、他人の(次元が違う、あるいは異質の)詩のテクニックに拒絶反応を示すという本能によって 構成されているだけのことで、それを意識するかしないかで、その詩人は主知的であるか主知的でないかに分類される。 大部分の詩人が、自分が詩を書く場合にテクニックを感じないのは、彼らのテクニックが類型化して、たんに模倣するだけの操作に なっているためという原因にもよっている。
ーーーーーーーーー引用終わりー

つまり、彼が言っているのは、詩と詩論の詩人達は、テクニックでもって詩を書き、そこで一番重要であったのは、そのテクニックそのものを主知的にかつ独創性をもって 創造していた、ということです。(この論が本当かどうかは個別にあたってみないといけないかもです。)
ただし、この後、最後の段落で、リードの「芸術作品のテクニックやその他の要素を分析的にみてよろこぶ読者は、せいぜい世界で数百人だ」という言葉をひいていて、「詩という芸術で先鋭的な作品を作ったとしても、一般には受けない」だろうと暗にほのめかして終わってるんですよ。つまり、難解な現代詩であり続けるというスキームをこの時点で用意しちゃっていた。 自分は、日本の現代詩は現在にいたるまで実のところ春山のこのスキームの上にのっかっちゃってたんじゃないかと思います。

 で、シュールレアリズムの話です。
春山の論に乗っかれば、テクニックとしてのシュールレアリズムといえるかもしれません。 同じ本に 阪本越郎の 「シュールレアリスムと文章改革」という論考がありまして、その中にジャック・バシェの「戦時の手紙」の引用として
ーーーーーーーーー
「そうだ、ぼくはこれを溢れさす二つの方法を知っている。稀有の言葉の燃え上がるような衝突の助けによって個性的な感動を構成することだーまたは瞬間ーそれは自然であるー における感情の明確な三角や正方形を巧みに描くことだーぼくらは論理的正直を見捨てる。ー矛盾することを条件としてー世間が凡てそうであるように。」
ーーーーーーーーーーーー

これでいいんじゃないかなと思います。 言ってることは、野村喜和夫さんが書かれている「混沌からの再構築・・・」と近似だろうと思うのです、、
現在では 矛盾あるいは混沌としたイメージの混入という手法はすでに手法として一般に知られていて、読者も十分に練れていると思います。無意識に利用されうるテクニックのひとつになってるんじゃないでしょうか?

さらに、手法としての行き詰まりという話が 同じ本の百田宗治「季刊の詩人たちは何をしたか」という論考の中にありました。 主知の詩人たちが詩と詩論から各論の派閥へと分かれていった経緯をみながら
ーーーーーーーー引用ー
ただ総括して言えることは、所謂新精神による詩人たちが殆んど一通りのスタイルを示し尽くした今日、更にそれを破って出ることの困難さがそれらの新しい詩人たちの前に共通に置かれていることである。季刊の詩人達およびそれと時代をひとつにして活躍した(現にそれをつづけている)詩人たちは、ほぼかれらの新建築を構成しつくしてしまった。それ以後の詩人達はどこへいっても天井また天井である。そして彼らの大部分は殆んど共通に自分達の前に構築されたそれらの建物の精神と技術を習得してしまった。彼らの強みはただちにその時代の構築の上に自分自身を打建てればよいことであって、その前々代の魅力はかれらから最早失われている、。それほどにかれらの詩の伝統は新しい。が、それが新しいだけにかれらのユニークなものは(もしそれがあるとするならば)ただちに露骨な独創を要求されている。(昭和23年)

 これで引用は終わりです。既に昭和23年にしてこの状況だったわけです。

 このあたりから荒地派がくるわけですが、思うに荒地ってなあ、「テクニックより中身だよ」っていう話だったんじゃないかなってちょっと思いました。 もちろんテクニックもありなんですが、、、、 たまに、戦中派の書いたもの読んでて思うんですが、戦争っていう大ダメージの後で「英知の扉」が少し開いたんじゃないかなって、、日本なんか大して人口がいたわけじゃあないのにめちゃ大勢の兵隊さんが大陸に渡ったんですよね、帰ってこれたときに、行く前と一緒の人間がそのまま 帰ってこれたとは思えないんですよ。戦争がなかったらもしかして県外に出ることもなかった人が多かったんじゃないかとも思うんです。例えば吉岡実の瓜のような頭をした中国人が馬を走らせている詩なんかも思い出すんですが、あれは彼が大陸に渡らなかったら産まれなかった。
 言いたい事が溢れてたある意味稀有な時代の必然の吐露が、荒地だったような気がするわけです。



 


散文(批評随筆小説等) 「詩と詩論」(冬至書房新社 昭和55年発行)を読んで B氏との会話 Copyright リーフレイン 2009-09-29 23:13:16
notebook Home