思潮社の現代詩文庫は一冊で一人の詩人の代表作を多く読めるセレクション詩集です。
一人の人の代表作を多く読むことはとても不思議な気持ちがします。
ある人の長い年月、時には20年以上を一度に読んでいることのです。しかも、一冊一冊の詩集はたいてい別のコンセプトで書かれているはずなのに、丁寧に追っていくと見えない岩にぶつかります。
『現代詩文庫70 宗左近詩集』より学ばされたことは、その静けさでした。
ほととぎす 宗左近
ほととぎす鳴きつるほうをながむれば
ただ有明の月ぞのこれる (後徳大寺左大臣)
空がすみわたっている
(とけている鏡のように)
夏は空だけが冷えている
(水のなかの鏡のように)
雲が暑さのふちにこぼれている
(空に浮いた鏡のように)
風が吹きあがっては青んでいる
(夢の中の鏡のように)
夜が深まる光の中に息をとめてくる
(砕ける前の鏡のように)
いってしまうものはよみがえってこない
(とけている鏡のように)
見えないほととぎすが鳴く
水の中の鏡の中で
この詩は小倉百人一首をもとにして書かれた『鑑賞百人一首』という1973年に出版された詩集の一篇です。
「いる」「ように」「いる」「ように」「くる」「ように」という何度も繰り返されるリフレインの中で、ひときわ際立つのがその音が崩れる6連目の「いってしまうものはよみがえってこない」です。
「こない」「ように」という二行連続でイの音で止まる言葉は、静かなしらべのから浮かび上がって動けなくなっているようです。
この詩の静けさがどこから来たのかを考えると、この詩集を読んでくださった方はきっと、詩集のの冒頭に収められた、炎える母』の詩篇に思いを寄せてしまいます。
東京の空襲で焼死したお母様を描かれた『炎える母』は戦後20年を過ぎてようやく世に問われた戦争です。
太平洋戦争中、徴兵を拒否するために体重を20kg落とし、精神病だとまで言い張った宗左近さんですが、空襲という形で戦争から逃げられなくなります。
『炎える母』の詩はどれも胸打たれる詩なのですが、ここではその中でも『走っている』を引用したいと思います。
走っている 宗左近
走っている
火の海の中に炎の一本道が
突堤のようにのめりでて
走っている
その一本道の炎のうえを
赤い釘みたいなわたしが
走っている
走っている
一本道の炎が
走っているから走っている
走りやまないからはしっている
わたしが
走っているから走りやまないでいる
走っている
とまっていられないから走っている
わたしの走るしたを
わたしの走るさきを
焼きながら
燃やしながら
走っている走っている
走っているものを追いぬいて
走っているものを突きぬけて
走っているものが走っている
走っている
走って
いないものは
いない
走っていないものは
走っていない
走っているものは
走って
走って
走って
いるものが
走っていない
いない
走って
いたものが
走っていない
いない
いるものが
いない
母よ
いない
母がいない
走っている走っていた走っている
母がいない
母よ
走っている
わたし
母よ
走っている
わたしは
走っている
走っていないで
いることが
できない
ずるずるずるずる
ずるずるずる
ずりぬけてずりおちてすべりさって
いったものは
あれは
あれは
すりぬけることからすりぬけて
ずりおちることからずりおちて
すべりさることからすべりさって
いったあの熱いものは
ぬるぬるとぬるぬるとひたすらぬるぬるとしていた
あれは
わたしの掌のなかの母の掌なのか
母の掌のなかのわたしの掌なのか
走っている
あれは
なにものなのか
なにものの掌の中のなにものなのか
走っている
ふりむいている
走っている
ふりむいている
走っている
たたらをふんでいる
赤い鉄板の上で跳ねている
跳ねながらうしろをふりかえっている
母よ
あなたは
炎の一本道の上
つっぷして倒れている
夏蜜柑のような顔を
もちあげてくる
枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
かざしてくる
その右手をわたしへむかって
押しだしてくる
突きだしてくる
わたしよ
わたしは赤い鉄板の上で跳ねている
一本の赤い釘となって跳ねている
跳ねながらすでに
走っている
跳ねている走っている
走っている跳ねている
一本道の炎の上
母よ
あなたは
つっぷして倒れている
夏蜜柑のような顔を
炎えている
枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
炎えている
もはや
炎えている
炎の一本道
走っている
とまっていられないから走っている
跳ねている走っている跳ねている
わたしの走るしたを
わたしの走るさきを
燃やしながら
焼きながら
走っているものが走っている
走っている跳ねている
走っているものを突きぬけて
走っているものを追いぬいて
走っているものが走っている
走っている
母よ
走っている
炎えている一本道
母よ
空襲のさなか母とはぐれ、それでも自分は生きるために走り続けている。
「走っているものが走っている/走っているはねている/走っているものを突きぬけて/走っているものを追いぬいて/走っているものが走っている」と現在形で走り続けている語り手は「赤い釘」のようになっています。
「赤い釘」の熱さはどこからくるのだろうかを考えると、語り手を追いかける火でできた、長細い影が見えてきます。
『愛しているというあなたに』という詩で
引き返し抱き起こすこともできたはずなのに
一目散に走りに走ってふりむきませんでした
見殺しにしたのではないそれ以上です
むしろ積極的に母を殺した
その思いをふかめるためだけの以後二十二年
やむをえなかったのだゆるされていい何度か
そう認めようとした心を何度もわたしの行為が
裏切ってゆく八千三十日あまりのあけくれ
と語り手は何度となく母を見殺しにしたことを責め続けます。
しかし、宗左近さんの詩はそれが痛切になるほど静かになり、彼の行為が仕方なかったのではないかと私には思えてなりません。
戦争がどうという以前に、生死の境目の厳しさを改めて教えられる詩集でした。
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今回取り上げた詩集:
宗左近詩集 (現代詩文庫 第 1期70)
宗 左近 (著)
出版社: 思潮社 (1977/02)
ISBN-10: 4783707693
ISBN-13: 978-4783707691
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4783707693/gendaishiforu-22
長篇詩 炎える母
宗 左近 (著)
出版社: 日本図書センター (2006/01)
ISBN-10: 4284700022
ISBN-13: 978-4284700023
発売日: 2006/01
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4284700022/gendaishiforu-22