私論・詩論・試論
……とある蛙
いつかは投稿しようと思っていたテーマなのですが、なかなかまとまらないので試論ということでとりあえず投稿します。
現代詩批判から
文学は読者無しには成立しませんが、その文学を愛する読者は近代詩の詩集を買っても現代詩の詩集は買わないそうです。
この事をインターネットで調べところ、詩集は初版300から500部だそうです。著名な詩の賞を獲得した詩人の詩集の増刷が300部だそうです。
読まれない物は結局文学の名に値するでしょうか?読まれなくとも芸術だといえるでしょうか? という問題提起は非常に危険ですが、現代詩の現状を考えるとこの問題は避けて通れないことかも知れません。
杉山平一氏は饗庭孝男氏との対談でこんな事を言っています。「詩はほろびつつあるのですね。書いている人たちはわからないのですが、外から見ると、よくわかるようです。現代詩というと、文学ずきの人でもみんな触れるのもいやだというふうに手をふって遠ざかりつつある。」
饗庭孝男氏はもっと強烈です。「密室のお遊びか学芸会のように切符を売り込んできてもらって、手を叩いてもらい、それで現代詩の吟遊詩人のつもりでいる。そういうどうしようもない、閉鎖的なものに自らを追い込んでゆく。」
と
もっとも詩はインタ-ネットを通じてかなり読まれていると思いますし、また、詩の読者はたとえ詩集が買われなくとも潜在的にかなりいると思います。お二方ほど深刻に考えなくともよいとは思いますが。
しかし、つまらないと感じる詩が多いのは事実ですし、現代詩に対して批判的な文章あるいは意見も多いので、自分の考え方を生意気ではありますが、少しだけ述べさせて頂きます。つまり、自分なりに詩の作り方も含め、考えてみようというわけです。
同じ言葉を道具として使用する文芸が実用文と決定的に違うのは言葉によって事柄あるいは物を異化して読者の心象に定着させようとする吐露にある と大江健三郎は言います(私ではありません)。異化の意味がはっきりしませんが、自分なりの解釈では言葉を単なるコニュニケーションツールとしての記号以上の意味を持たせることだと考えているようです。従って、その言葉が読者に定着するということのようです。彼は俵万智をほめていました。文章に書けば読み流すような日常的な言葉を異化した と
詩は小説などに比べ非常にエモーショナルな文芸であるはずなのにどこかでボタンの掛け違いがあったのではないでしょうか。詩は小説と比べ余白が多い分遙かに胸にジーンと来るはずです。
しかし、多くの現代詩はどうでしょう。訳知り顔で批評することはできても誰も感動しないような詩が多いと思いませんか?
一言で言えばつまらないのです。テーマやモチーフの捉え方があいまいなのではないでしょうか。小説は取材を非常に綿密に行いますが、詩に関しての取材など最近は聞いたことがありません(中には本当の戦場に行って何かわかったようなことを言う詩人もいるようですが)。最近の詩人は部屋に閉じこもり過ぎているではないでしょうか。外に出ようよ と提案したいのです。
難解なのは何の問題もありませんが、初めて読む人にも理解可能なキーワードは必要でしょう。荒川洋治さんの詩はその辺りをうまく張り巡らしているようです。
読者の知識や共感に頼らない詩を書くべきです。 と彼もどこだったかで言っております。
ある詩人は大衆が読んで分かる詩を要求するのは間違いだと言ったそうです。非常にこみ入った話について体験格差があると大衆は分かろうとする努力を怠り、拒否してしまう。大衆に迎合する詩を書くことを要求するのは明らかに消費者意識だと断定したそうです。
ヒトに分かるように文章を書くことは文章本来の目的からすれば当然なのですが、それがまともにできない者がそれを読者のせいにするのは問題外です。
まず、ヒトに理解できる文体の中で、喩法などレトリック、表現方法などを工夫して個性的なものを書くべきでしょう。しかもそれが読者にハットさせたり、ジーンとさせたり、ニヤリとさせるようなうまい言い回しと感じる表現ができれば、詩はますますすばらしい文芸になるのではないでしょうか(今までもそうしてきたという声はありますが)。
また、余白に何かを表現したければ、表現したいことを感じさせる言葉の選択と積み重ねが必要だと思われます。このあたりも努めて行うべきことだと思います。
およそ自分で自分の書く詩の事を難解と言う事程、馬鹿げた事はありません。最低でも自分にとってはむしろ明白なもので、優しいとは感じても難解だとは決して感じないものです。ただし、自分にとっては明白なのに、それが時代の常識とあわない場合は当然あると思いますが。
難解と考えられるものであっても、読者に理解できる何らかの表現技術は使うべきです。難解を売り物にする事はかまいませんが(これもまた自由ですが)、決して尊敬されるものではありませんし、詩や言葉本来の持つ力を殺していることは理解すべきです。進んでいる=難解という図式は全く独りよがりです。さも難解であるかのように作るのが現代詩人だとすれば非常に不幸なことだと言わざるを得ません。
私は詩が韻律を持った文芸であると考えていますから次のように考えます。
?現代詩は韻律を理解し工夫しない多くの詩人に書かれているという宿命的アキレス腱を持っています(自由律なので当たり前だという声もありますが、自由律も本来韻律があります)。不完全な散文になってしまったのです。韻律の意味を再度考える必要はあります。
立原道造などは歌舞伎などが好きなので意識的に七五調を棄てないければ詩が書けないという状況だったそうですが、それでもある種に韻律を意識して書いていると思われます。
戦後詩は戦前の戦争協力あるいは戦争に否定できなかった詩壇の反省の上に立つと宣言し、余り因果関係のない韻律の問題も深く研究しなくなったようです。戦前荻原朔太郎は俳句なども研究しており(蕪村の研究は有名ですが)、彼の詩にはある種の韻律があります。「荒地」派プロレタリア詩の「列島」などがリードし、いずれも過去の定型や奴隷の韻律を(小野さんの言い方-荒地派ではない)棄てました。つまり、文字だけの表現でよしとし、自ら猿ぐつわをして、奴隷の韻律を捨てたのです。ますます詩らしくない詩を書き始めました(吉本隆明の芸術論は理解不能なので言及しません)。
※私の大好きな「櫂」の人たちは別ですが……完全なエコ贔屓ですが。
詩人たちは文字にこだわり自らの口に猿ぐつわをはめてしまったのです。そのため、つまらない中途半端な散文のたぐいのような文芸が自由律詩となってしまいました。もちろん違うものもたくさんあります。
詩のもつ韻律を再考することによって詩の持つ叙情性も再確認できると思います。
私は詩の持つ叙情性をもう一度認識するところから、詩の読者を増やすことは出来ると思っています。
? 踰法の独善について
自分に分かるだけの言葉を踰法に使おうとする。全く馬鹿げています。全く分からない言葉、あるいは固有名詞を使う場合はできるだけ分かるような仕掛けを文中に入れるか、歌物語のようなverseをつけるか工夫すべきです。
結局、モチーフあるいはテーマの捉え方が曖昧なため、独善的な喩法にならざるを得ないと考えられます。
喩法は詩の一番重要な要素ですので一番頭を使うべきところなので十分練りに練った表現を考えるべきです。
? 読み手の許容できる量以上の分量の言葉の羅列
難解、つまらないテーマの押しつけ、分からせようとする努力の放棄をしないことが必要です。その上で読み手の許容できる量をはかった詩を書くべきではないでしょうか?そのためにはモチーフやテーマの十分な捉え方が要求されると思います。自分が伝えたいことを十分伝えるための必要な分量が分からなければ、ただの垂れ流し的な文章になってしまいます。かといって過剰な分量の言葉はヒトを辟易させるだけです。
最も戦争に反対して消極的ではあるが戦争と向き合った詩人の金子光晴は言う
深刻そうなこと、利口そうなことを、ナイーブらしいことを、ひとをたぶらかすそんなゼスチュアで自分もごまかされたさに、君、詩なんておかしくって書けるか(ね、心平ちゃん)。(金子光晴「歴程」昭和11年4月「詩にかえて」から)
個人的に私は 奴隷の韻律である七五調の復活があっても良いと思っています。もちろん全てそれで書こうなどとは思っていませんが、七五調で書いてどこが悪いと言うことです。日本語本来の韻律で四拍子になります(このことは研究書が何冊かでていますので勝手に調べてください)。
勝手なことをだらだらと書いておりますが、最後までお付き合い頂いた方、ありがとうございます。