或る少女の生涯について
吉田ぐんじょう


私の本当の名前はスマコというらしいです
だけど父も母も兄弟もみんなスマと呼ぶので
いつの間にか私はスマになってしまいました
ときどき本当の名前について考えます
コというのはどういう漢字なんでしょう
もしかしたら犬をあらわす漢字の

なのかもしれない

まったく私は犬みたいに生まれてきました
一番最初の
忠犬ハチ公の銅像が出来上がった年の
宇宙飛行士のユーリ・ガガーリンが生まれた日に

父は湿っぽい布団の上でいごいごとうごめく私を見て
なんだ むすめっこか
と一言言ったきりだったと聞いています
父に関する事はあまり覚えていないのです
ただあの頃の日本の平均的な父親だったような
毎日広い畑で野良仕事をして
休憩中は煙管をふかし
夜になれば質の悪い酒で酔っ払って
たまに母や子供を殴るような
たったそれだけの
それ以上でもそれ以下でもない父親だったと記憶しています



弟が一人います
少し年が離れているため
私は物心ついてからすぐ弟のおもりをしながら
野良仕事をする母をたすけて家事をするようになりました
弟はショウちゃんと云います
おさるのおにんぎょさんみたいに可愛い子で
私は姉というよりは母親のように彼をかわいがったものです
実際
私のようなものは
物心ついてすぐに母親の役目を果たせなければ
まるで要らない子だったのです

このあたりの冬は静かです
あんまり静かで気が滅入るほどです
ショウちゃんは夜泣きをするたちでしたので
新月の夜なんかにおぶい紐でおぶって
どこにも灯りの見えないあてのない道を
ゆっくりゆっくり歩きました
ただ身を切る寒さだけがそこにありました
あの頃の空気は確かに透明な玻璃ハリで出来ていたに違いないと
今となってはそう思います



学校へは時々行きました
野良仕事の忙しくないときだけでしたけど

大人の男や女の先生が
絶えず何か注意しながら歩き回る狭い校庭や
子供たちの風にはためく
絣や紬の着物の袖などを見るのは楽しいものでした
文字を読み算術を習い友達とふざけあって
心臓が石炭のように燃えるまで毎日駆け回りました
ですが
じきに私は学校へは行けなくなりました
ゲンロントウセイというものが始まり
国民服が支給されトロツキイとかいう人が暗殺され
時代はだんだん真夏の夕立前の空のように
暗く暗くなってきたのです
ですが学校へ行けなくなったのはそのせいではありません
どういうわけかその頃から
私のうちでは作物が狂ったように実りはじめました
採っても採ってもまだまだ実っている果実や稲や野菜は
裏庭に積み上げられ腐ってゆきました
私や父や母が大車輪になって働いても
追いつかないくらい実るのです
恐ろしい予感がしました



戦争のことはきれぎれにしか覚えていません
こんな田舎の空にも毒虫のような影を落としてB二十九が飛び
私が母から種を貰って鉢に育てていた花は
それが
産卵するかのようにたわいなく落とした爆弾で
目の前で火をあげて砕け散りました
この世に人間が太刀打ちできないものがあるなんて
大切なものがこんなに簡単に破壊されてしまう
そんな理不尽なことがあるなんて知りもしませんでした

さいわいにも私の家はみすぼらしく
しかも目印も何もない
広大な土地のはずれに建っていたために
家が花のように燃え上がることはありませんでした
ただどうしたことか
ある青天の日
畑でもぐらとりをしていた父が
誰かが気晴らしで落としたのであろう
爆弾にあたって死にました
畑の真ん中で焼け焦げた父は
まるで
父自体が大きなもぐらのようにも見えました
私たちは父を真ん中にして輪になって立ち
黙って父の死を悼みました
都会から疎開へやってきた知らない人が
私たちのその有様を見て
まるで昔からの知り合いのように
素早く丁寧に父の遺骸を埋めてくれました
空が青かったことを覚えています



戦争中は食料が乏しかったため
薩摩芋ばかり食べました
そのおかげで私は
もうきっと死ぬまで薩摩芋を食べないだろうと思います



戦争というものが終わったとき
私は十三歳で
おぼろげに人生というものについて
考えはじめていました
何でもできそうな気がしました
だってあのひどい戦争を
戦争が始まる前と同じ体で同じ顔で
どこもそこなわずに生き延びられたのですからね

私たちは父の畑を耕し
ぼそぼそと何かそこらへんにあるものを植えて育てました
都会から食料を求める人が私たちのところへも来ました
そんなとき私たちは決まって
父の遺骸の埋まったあたりに実っている薩摩芋をやりました
耕さなくてもそこには勝手に薩摩芋が出来ていましたし
しかもそれは
臓器のようにグロテスクで鮮やかな色だったからです
都会から来た人はどんな人でも
影法師のように見えました
風に揺らぎながらただへなへなと歩いて
時折路傍で煙草をふかしたりしていました



私が結婚をしたのは十七の夏です
結婚相手の男はむかし通っていた学校の
大人の男の先生に似ていました
膝の抜けたみすぼらしい作業ずぼんを履いて
顔を泥だらけにしながらその人は
ある日私の前にやってきました
そのことはそれだけで十分でした
これ以上ないくらいによくわかりました
私たちは夫婦となり
ショウちゃんや母をそこへ置いて
実家よりももっと田舎にある
小さな木造の家へ移り住みました
男の人のことをわたしは
おめさま
と呼びました
名前は結婚後ずいぶん経つまで呼べませんでした
私があの人の名前を呼んだのは
あの人の葬式のとき
そのときただ一度きりです
都会の人は嗤うでしょうか



私たち夫婦には
息子が二人生まれました

長男はショウちゃんにそっくりだったため
時々間違えてショウちゃんと呼んでしまうことがありました
次男はびっくりするほどあの人に似ていました
今でも私は次男と接するとき
なんだか緊張してしまうほどなのです
狭い木造の家で
私たちの生活はなごやかに流れてゆきました
ショウちゃんの電話や母の訃報など
その生活はしばしば
石を投じられたように乱れはしましたけれど
あの人はその間も変わらず縁側に座っていたし
長男と次男は飽きもせずに鬼ごっこをして遊んでいましたから
私はそれだけで安心だったのです



やがてあの人が死んでからすぐに長男は家を出て
それきりふっつりと音信が途絶えてしまいました
次男は家から通えるところへ就職をし
やがて就職先でおよめさんを見つけてきました
およめさんは快活でよく働く人でした
ああこれで安心して死ねると思って
わたしは生前あの人が
農薬なんかをしまっておいた棚を開きました
でもあれほどたくさんあった農薬の瓶は
ひとつもなくなっていたのです
あの人が持って行ったんだと私にはすぐにわかりました

そのころからでしょうか
なんだか時間が
早く過ぎてゆくような気がして仕方がないのでした



いま私は七十五歳です

次男の建てた家でおよめさんと次男と
孫と孫娘と一緒に暮らしています
洋服も電化製品もふんだんにあり
昔とは全然違う
とても色鮮やかで楽しい日々を送っています

長男からの音信は相変わらずありません
先日の昼間
テレビのニュース番組を観ていたときに
アナウンサーの背後を長男によく似た男性が横切っていきました
アメリカからの生中継です
とアナウンサーは言っていましたが
本当に長男だったのでしょうか
ぼんやりしていると
少し年老いて でも昔と変わらず快活なおよめさんが
ほらおかあさん ごはんがこぼれますよ
と笑いながらつっつきます

この頃は
孫娘のまねをしてお砂糖も牛乳も入れないコーヒーを
ほんのひとくちだけ飲んでみたりするのですよ

テレビの前に据え置かれた座イスで
うつらうつらしていると
孫が毛布をかけてくれます

幸せ だと 思います
だけどもう
眼もかすんで
立つこともできないですし
耳もよく聞こえないのです

毛布をかけてもらっていい気持ちです

昔はもぐらのようになった父の夢や
小さいままのショウちゃんや母の夢をよく見ましたけれど
このごろはちっとも夢を見ません
夜の海にたったひとりで
ふんわりと浮かんで流されてゆくような眠りです
もしかしたら
私はずっと夢を見ていたのじゃないでしょうか
あの頃の十二歳のまま
こんなにも長い夢を
こんな風になるまで ずっと

もう起きて家に帰らなくてはなりません
そこに立っているのは誰でしょう
どこから来たのですか
わたしを置いてゆくのですか
何故かしら
眼を開いても眼を閉じても
ずっと夕闇の明るさです





二〇〇九年八月の風が吹く日
祖母の語った話を孫娘記す










自由詩 或る少女の生涯について Copyright 吉田ぐんじょう 2009-09-03 01:41:43
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